五胡十六国における異相(6)

おわりに

 ここまで、五胡十六国における異相について検討してきた。

 1章では中国史全体における異相研究について整理を加えた。1節では古代からの異相を概観し、異相が人間として本質的に優れた人物に与えられるものであることを確認した。2節ではそういった見方に対する批判的見解と、受命思想に基づく肯定的見解を見て、全体的には肯定的見解が多いことを確認した。3節では異相研究の現状について整理した。主に相術と受命思想の影響が指摘されている。新説として仏教由来説も言及した。4節では『晋書』載記の史料批判を加え、載記を安易に信ずるべきではないことを改めて確認した。

 2章では時代を絞り、五胡十六国の異相について概観した。1節では載記に見られる異相を全て抽出した。その結果異相を持つ人物が僅かに十名であることが判明した。2節では五胡十六国の異相を、劉氏の髭に関する異相、慕容氏の古典的異相、垂手過膝、呂光の重瞳、苻生のマイナス的異相の五点に整理しその意図を検討した。各異相にはそれぞれ共通性が見られ異相が様々な意図から付与されていた可能性が浮かび上がった。また、1節で見たような古典的異相が見られずに新たな状態の異相が出現していることも確認した。

 3章では、重瞳に絞って論を展開した。まず1節では中国史上における重瞳を整理した。重瞳の人物は正史には九名のみであった。その意図としては皇帝の異相、舜あるいは項羽との連想があることを理解できた。また重瞳の現実的状態についても検討した。2節では呂光重瞳の記事の発祥地を特定した。その結果、現存する引用の中では『涼州記』が初出であった。これにより少なくとも北涼の時代、涼州の地で呂光重瞳が生まれたことが判明した。3節では呂光重瞳の意図として、従来の指摘の他に仏教的要素が含まれていることを指摘した。重瞳は仏の身体特徴である三十二相の一つ、「真青眼相」と同一視されていた形跡が見られた。呂光重瞳は、従来の舜や項羽を連想させる中国的要素と、三十二相の一つである真青眼相との同一視による仏教的要素が組み合わさったものであり、それは後涼政権内から、その効果的支配の為に生じた可能性が高い、と結論づけた。

 4章では3章と同様に垂手過膝に絞り論を展開した。1節では中国史上における垂手過膝の立場を整理した。垂手過膝の人物は『三国志』の劉備から急激な増加をしており、また皇帝の異相としての認識が見られることを確認した。2節では五胡十六国の君主達における垂手過膝の意図を検討した。結論として、垂手過膝は三十二相の一つである「正立手摩膝相」と酷似しているという王晶波の指摘を踏まえながら、仏教的要素に加え、垂手過膝であった西晋司馬炎との連想による王朝としての正統性獲得という要素が組み合わさったものであるとした。

 各章、各節の結論は以上である。これによる成果は以下の通りである。

 第一に、歴史学から見た異相研究動向を整理したということ。日本において、異相研究論が皆無であることは既に触れた通りである。また「長上短下=垂手過膝説」に見られるような誤った説も排除することができた。

 第二に、五胡十六国における異相の潮流に先人との連想、仏教的要素の両要素が存在した事実を明らかにできた。王晶波の仏教由来論では、垂手過膝には「先人との連想」という重要な要素が言及されていなかったが、その欠落を補うことができた。また重瞳においては「真青眼相」との同一視ではないかと指摘し、重瞳にも仏教的要素が含まれていることを論証した。

 人物の異相は、単に優れた人物や皇帝を表すといった要素だけが含まれているわけではない。そこには時代的な背景、文化、政治的意図といったように、具わっている理由が存在している。そうした意図が含まれていることを留意して史書を読むことは面白く、また重要である。

<終>

 

【参考文献】
・滝川亀太郎『史記会注考証』(史記会注考証校補刊行会、1956年5月)
・新保信夫「多瞳孔の1例」(眼科臨床医報、1964年58-1号)
・藤井専英『荀子 上』(新釈漢文大系第5巻、明治書院、1966年10月)
・段亀龍撰、張澍輯『涼州記』(二酉堂叢書、百部叢書集成50、藝文印書館、1967年)
・本田済、沢田瑞穂、高場三良『抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経』(中国古典文学大系第8巻、平凡社、1970年9月)
海音寺潮五郎『中国英傑伝 上』(文藝春秋、1971年1月)
山田勝美『論衡 上』(新釈漢文大系第68巻、明治書院、1976年9月)
松田久美子他「先天性多瞳孔の1例」(眼科臨床医報、1978年72-4号)
・町田隆吉「二・三世紀の南匈奴について─『晋書』巻101劉元海載記解釈試論─」(社会文化史学、1979年3号)
郭沫若「楚覇王自殺」(『郭沫若全集』文学編第10巻、人民文学出版社、1985年9月所収。初出1936年9月)
・楠山春樹『淮南子 下』(新釈漢文大系第62巻、明治書院、1988年6月)
・乾一夫『聖賢の原像─古代中国思想序説─』(明治書院、1988年10月)
・小川陽一「明代小説における相法」(東方学、1988年第76輯)
本庄良文「シャマタデーヴァの伝へる阿含資料─世品(3)仏の相好─」(神戸女子大学紀要、1990年24L巻)
・田口秀夫「重瞳の系譜」(『室町芸文論攷』、1991年)
・鍾肇鵬『讖緯論略』(遼寧教育出版社、1991年11月)
・楊振国「”重瞳”再訓」(内蒙古民族師院学報、1993年第2期)
高橋明郎「中国文学における身体描写 序説」(香川大学教育学部研究報告93号、1995年)
・清水凱夫「唐修『晉書』の性質について(上)─陶潜傳と陸機傳を中心として─」(学林、1995年7号)
渡辺精一三国志人物鑑定事典』(学習研究社、1998年4月)
・鈴木桂「五胡十六國時代に關する諸史料の紀年矛盾とその成因─唐修『晉書』載記を中心として─」(史料批判研究、2000年第4号)
・陳正栄『奇人異相』(遠流出版、2001年1月)
・兼平充明「後涼政権下の諸反乱について」(青山史学、2001年)
・坂口和澄『三国志人物外伝』(平凡社、2006年5月)
・江君、張玉春「史記人物容貌品評与人物形象累計化卑見」(貴州文史叢刊、2008年1期)
相田満「観相をめぐる言説」(アジア遊学No.118、2009年)
・佐竹靖彦『項羽』(中央公論新社、2010年7月)
・王雲度「論項羽的英雄気概」(『項羽研究』第1輯、鳳凰出版社、2011年5月)
王晶波「論史書中帝王形貌記載及其演変」(中国典籍与文化第76期、2011年)
相田満「相書にみる唐本と和刻本」(『古典籍の形態・図像と本文』、2011年)
・五胡の会編『五胡十六国覇史輯佚』(燎原書店、2012年2月)
・三崎良章『五胡十六国国史上の民族大移動 [新訂版]』(東方書店、2012年10月)
・木下茂、中澤満、天野史郎『標準眼科学 [第12版]』(医学書院、2013年3月)
・晋文、趙怡氷「重瞳記載的起源・内包与転変」(中国史研究、2014年第2期)

 

後記

 5年ほど前に書きました。内容自体はアレですが、テーマとしては中々興味深い題材ではないでしょうか。どなたかが成果を上げてくれることに期待します。

 

五胡十六国における異相(5)

第4章:垂手過膝

第1節:垂手過膝の理解

 五胡十六国の垂手過膝問題に取り組む前に、垂手過膝という異相について整理を行う。

 まず、現存する史料の中で垂手過膝の異相を持つ最古の人物は、三国時代劉備である。劉備以前の古代の帝王には垂手過膝と似た状態を示している異相は見受けられない。

身長七尺五寸,垂手下膝,顧自見其耳。(『三国志』巻三十二、蜀書二、先主劉備伝)

(身長七尺五寸,手は垂ること膝を下り,顧みて自ら其の耳を見る)

 『三国志』によると劉備は身長七尺五寸、手を垂らすと膝を越すほどであり、振り返って自分の耳を見ることができるほど耳が大きかった、という異相が記述されている。垂手過膝を現実的に解釈するならば、膝に届きそうなほど長い手という状態であろうか。これは3章で取り上げた重瞳よりは現実的に具わっていた可能性の高い異相であるといえる。

 この垂手過膝の異相を持つ人物は五胡十六国以降、爆発的と言って良い程に増加する。垂手過膝の異相を持つ人物を、正史を中心に表にまとめた。

 

(表5)正史における「垂手過膝」の異相人物

人物

活躍年代

代表的出典文献

成立年代

表現

劉備

三国(蜀)

三国志

西晋

垂手下膝

司馬炎

西晋

『晋書』

手過膝

劉曜

五胡十六国前趙

『晋書』

垂手過膝

劉皇后

五胡十六国前趙

『三十国春秋』

手垂過膝

苻堅

五胡十六国前秦

『晋書』

臂垂過膝

姚襄

五胡十六国後趙

『晋書』

臂垂過膝

慕容垂

五胡十六国後燕

『晋書』

手垂過膝

王元初

南朝(斉)

『南斉書』

垂手過膝(自称)

陳覇先

南朝(陳)

『陳書』

垂手過膝

陳頊

南朝(陳)

『陳書』

手垂過膝

柳皇后

南朝(陳)

『陳書』

手垂過膝

宇文泰

北朝西魏

『周書』

垂手過膝

李祖昇

北朝北斉

北斉書』

垂手過膝

劉元進

『隋書』

臂垂過膝

王衍

五代十国前蜀

『新五代史』

北宋

垂手過膝

劉龑

五代十国南漢

『新五代史』

北宋

垂手過膝

 

 垂手過膝の全人物を記載したとは言い切る自信はないが、それでも十六名と、垂手過膝の多さが見て取れる。特に五胡十六国南北朝時代に集中が見られる。

 ちなみに安禄山については、『太平御覧』巻一百十一、皇王部三十六に『唐書』の記述として「晚年益肥壯、垂手過膝」と引かれていたが、文として意味不明であり、『旧唐書』巻百五十、安禄山伝には「晚年益肥壯、腹垂過膝」、『新唐書』巻二百二十五、安禄山伝には「祿山腹大垂膝」とあることから、「手」と「腹」の誤記であると思われる。

 また、垂手過膝と同様の描写として引き合いに出されるのが、三国呉の孫権が具えていた「長上短下」という異相である。この記述は『三国志裴松之注の呉書に引く『献帝春秋』、また蜀書に引く『山陽公載記』の二書に見える。

獻帝春秋曰、張遼問吳降人「向有紫髯將軍、長上短下、便馬善射、是誰」降人答曰「是孫會稽」(『三国志』巻四十七、呉書二、呉主孫権伝「権乗駿馬越津橋得去」注)

(獻帝春秋曰く、張遼は吳の降人に問うに「向に紫髯將軍有り、長上短下にして、便馬善射なり、是れ誰ぞ」と。降人は答えて曰く「是れ孫會稽なり」と)

山陽公載記曰、備還、謂左右曰「孫車騎長上短下、其難爲下、吾不可以再見之。」乃晝夜兼行。(『三国志』巻三十二、蜀書二、先主劉備伝「先主至京見権,綢繆恩紀」注)

(山陽公載記曰く、備還り、左右に謂いて曰く「孫車騎は長上短下、其れ下爲ること難く、吾以て再び之に見えるべからざるなり」と。乃ち晝夜兼行す)

 この長上短下という句は「胴長短足」という意味と解釈されており、これを垂手過膝と同一と捉える見方が多数提示されている[i]

 しかし、この捉え方は双方向の想起において無理がある。まず、垂手過膝は「手が長い」という意味はあれども胴長短足の要素はどこにもない。垂手過膝から長上短下を想起することは、胴長短足でも通常の体格でも手の長さには変わりない為にあり得ない。

 また長上短下から垂手過膝を想起することもない。なぜなら「長下短上」、つまり短い胴で長い足という状態ならば、手が通常の長さであっても膝に近くなる為、垂手過膝を想起することはできるが、それとは全くの逆の状態を指しているからである。故に長上短下は垂手過膝と同様の異相と捉えることはできない。

 また同様に「猿臂」という描写がある。こちらは「猿のように長い肘」と取れば垂手過膝と同様の状態を表す描写といえるが、その用法は異なり、「猿臂善射」といったように、身体特徴を描写するというよりは、弓術に長けているといった武勇の描写として使用されている。加えて、この猿臂という記述は正史にほとんど見受けられない。最も古い記述は『晋書』載記の劉元海載記であるが、上述の理由から2章1節で挙げた異相表には載せていない。

 

 垂手過膝はどのような理解がなされているか。小川陽一は劉備の垂手過膝について、『麻衣相法』による相術の影響を指摘している[ii]。ただし本論は『三国志演義』を対象としており、『三国志劉備の身体特徴にも触れられてはいるが、『麻衣相法』が五代十国の相書であることから見ても、そのまま当てはまるとは言いがたい。また1章3節で述べた通り、王晶波は垂手過膝に相術の影響はないと論じている。その他の説として、渡辺精一は「膝下まで届く長い手は、馬上での弓術その他運動能力の象徴、自分の耳を見られる目は「聡明」の「明(よく見える目)」で、よく物を見ぬけることの象徴」とし、坂口和澄は垂手過膝を胴長短足であると断定して、「常人と異なる姿に畏怖の念を持つと同時に、矮小な中国馬に乗っても胴長ゆえに見映えがした、というのが一因ではないか」と推理している[iii]

 それぞれの人物を見てみると、司馬炎西晋の初代皇帝、劉曜前趙五代皇帝、劉皇后はその劉曜の皇后、苻堅は前秦三代皇帝、姚襄は後秦建国者である姚萇の兄で羌族の部族長、慕容垂は後燕の初代皇帝、王元初は皇帝であり垂手過膝であると自称しており列伝がない人物、陳覇先は陳の初代皇帝、陳頊は陳の四代皇帝、柳皇后はその陳頊の皇后、宇文泰は西魏の宰相で、北周建国者である宇文覚の父、李祖昇は北斉外戚、劉元進は隋の反乱首謀者で天子を称した人物、王衍は前蜀の二代皇帝、劉龑は南漢の初代皇帝である。

 ほとんどの人物は皇帝、皇后であり、皇帝ではない姚襄や李祖昇も皇族ではある。また皇后が垂手過膝である場合は、その夫である皇帝が必ず垂手過膝であることも興味深い。垂手過膝が皇帝の異相であると見られていた証拠である。

 また、垂手過膝には皇帝を僭称する人物が自称するという記述も見られる。『南斉書』李安民伝にその事例が見られる。

先是宋世亡命、王元初聚黨六合山僭號、自云垂手過膝。州郡討不能擒、積十餘年。安民遣軍偵候、生禽元初、斬建康市。加散騎常侍。(『南斉書』巻二十七、李安民伝)

(先して是の宋世に亡命し、王元初は黨を聚め六合山に僭號し、自ら垂手過膝と云う。州郡は討ち擒ふること能わず、十餘年積む。安民は軍偵候を遣り、元初を生禽し、建康市に斬る。散騎常侍を加う)

 ここには王元初という人物が皇帝を称した際に同時に垂手過膝であると吹聴したことが記されている。垂手過膝が皇帝の異相と見なされて、それを自ら付与するほどに浸透していたということになる。恐らくは隋で天子を称し反乱した劉元進も、史書に記載はないものの、皇帝を称する正当性を得るという意図から自らが付与した可能性が高い。

 以上のように、垂手過膝は単純に手が長いということを示すわけでなく、皇帝の異相、あるいはその他の要素を付与されることを期待して、意図的に与えられた異相なのである。

 

第2節:五胡十六国における垂手過膝

 ここからは五胡十六国の垂手過膝人物に絞って見ていくこととする。載記にある垂手過膝の人物は、劉曜、苻堅、姚襄、慕容垂の四名と『三十国春秋』に記載されている劉皇后、合わせて五名である。全員が皇帝、または皇后であり、載記に記されている五胡十六国の十異相の内、四異相がこの垂手過膝であることから、何らかの意図の流行が見て取れる。

 載記に記されている四名の垂手過膝記述の初出を『五胡十六国覇史輯佚』にて調査した。その結果、まず『十六国春秋』に劉曜、苻堅、慕容垂の三名の垂手過膝が確認できた(それぞれi2004、i2016、i2045)。姚襄は『十六国春秋』の人物描写には見られなかったものの、『秦記』『後秦記』の二書に垂手過膝の記述が見られた(i4164、i4025)。また苻堅は『秦書』の人物描写には垂手過膝が見られなかった(A0005)。ただし省略されているだけである可能性が高いので、『秦書』に記述がなかったと断定することはできない。

 民族としては、劉曜匈奴、苻堅は氐、姚襄は羌、慕容垂は鮮卑と様々であり、垂手過膝の問題においては関係性が薄いと思われる。

 それではどのような要素が垂手過膝には見られるか。まずは仏教的要素に言及しよう。王晶波が垂手過膝に仏教的要素が含まれていることを指摘したが、具体的にはどういうことか。実は、垂手過膝は三十二相八十種好の中に明確に記載されているのである。それは三十二相の九番目の相であり、「正立手摩膝相」という異相である。3章と同様に『大智度論』巻四に記されている相好を引く。

九者正立手摩膝相。不俯不仰、以掌摩膝。(『大正蔵』二十五巻、九十頁、中段)

(九は正立手摩膝相なり。俯かず仰がず、以て掌膝に摩す)

 正立手摩膝相とは、直立時に掌が膝に触れるほど腕が長いという相である。これは垂手過膝と全く同じ状態を指している。垂手過膝は古代の帝王や相術由来の異相ではないとする王晶波の指摘はこれに依拠しており、ここでもこれに従う。以前には全く見られなかった異相が三国時代劉備西晋司馬炎五胡十六国の君主達といったように急激に出現しているのは明らかに不自然であるからである。

 続いて王晶波の指摘にはない、五胡十六国における先人との連想要素について言及する。五胡十六国以前で垂手過膝である人物は劉備司馬炎の二名であり、連想がなされたとすればこの二名の他にはない。劉備が初出の人物であることは既に触れた。それでは司馬炎の垂手過膝はどうであったか。まず問題点として、司馬炎の垂手過膝は五胡十六国において広まっていたかどうかという点がある。『太平御覧』に引用されている、東晋の王陰が著した『晋書』には垂手過膝の記述が見られている。

王隱『晉書』曰、初、武帝未爲太子、文帝問裴秀曰「人有相不」秀曰「中撫軍伸手過膝、非人臣之相也」(『太平御覧』巻三百七十、人事部十一、手)

(王隱『晉書』曰く、初め、武帝未だ太子と爲らざるに、文帝は裴秀に問いて曰く「人相有りや不や」と。秀曰く「中撫軍は手伸ばすこと膝を過ぎ、人臣の相に非ざるなり」と)

 

 ひとまず東晋までは遡ることができた。無論これ以前に既に広まっていた可能性もある。五胡十六国の君主達が司馬炎の垂手過膝を知っていたとしても不思議ではないと言える。むしろ五胡十六国の君主に限って言えば、劉備ではなく司馬炎を連想させようとしたのではないかと思われる。

 その理由は、彼ら五胡政権が東晋を正統王朝として認めてはいなかったことにある。つまり西晋以降から続く中国の正統王朝は自分達であるという認識を持っていたのである。三崎良章氏は、五胡十六国には五行説による前王朝の継承を称する国家が多数存在することを指摘した。例えば前趙劉曜は319年に国号を漢から趙へと変更するが、その際水徳を以て晋の金徳を継ぐとした。

繕宗廟、社稷、南北郊。以水承晉金行、國號曰趙。(『晋書』巻一百三、劉曜載記)

(宗廟、社稷、南北郊を繕う。水を以て晉の金行を承り、國號は趙と曰う)

 また前秦後趙の水徳を受け木徳に、後秦は木徳を受け火徳とした。後燕は、前燕後趙の木徳を称していた為、それを継承したとされる。それを踏まえると、西晋司馬炎から前趙劉曜前秦の苻堅、後秦の姚襄までは連関している。無論一概には言えないが、彼らの垂手過膝は、五胡十六国以前に存在した統一王朝である西晋司馬炎を連想させようとする意図が含まれていた可能性は多分に存在する。

 「劉備との連想」については、あったとしてもそれほど強いものではなかったと言える。劉備は優れた英雄であったが統一王朝を作ったわけではない。異相が初出した人物とはいえ、西晋司馬炎よりは格が落ちる存在だからである。異相の付与者が3章3節で述べたように(1)の、自政権側の付与であったならば劉備よりも司馬炎を連想させようとするだろう。(2)の、史書を記した継承政権側の付与であったならば確かに考えられないこともない。すなわち五胡十六国の君主達に、一地方政権の雄としての劉備を重ねあわせるという意図としての利用であるが、統一王朝の創始者である司馬炎がいる以上、そこまで効果的とも思えない。また(3)後世の人物の付与、においては姚襄が覇史である『秦記』『後秦記』に引かれていたことからも可能性は低い。 

 上述の点からみて、五胡十六国の垂手過膝は三十二相の「正立手摩膝相」による仏教的要素の付加に加えて、司馬炎との連想を持たせることで王朝としての正統性を獲得せんという意図のもと、政権側が付与した異相である、と結論づけられる。両者がどの程度の割合で含まれていたのかは不明であるが両要素ともにどちらかに限定しうるほど軽微な要素ではない。五胡十六国の垂手過膝は両要素が含まれている異相であった。

<続く>

 

[i] 坂口和澄『三国志人物外伝』(平凡社、2006年5月)、陳正栄『奇人異相』(2001年1月、遠流出版)

[ii] 小川陽一「明代小説における相法」(東方学、1988年第76輯)

[iii] 渡辺精一三国志人物鑑定事典』(学習研究社、1998年4月)、坂口和澄『三国志人物外伝』(平凡社、2006年5月)

 

五胡十六国における異相(4)

第3章:呂光重瞳

第1節:重瞳の理解

 呂光の身体特徴は「身長八尺四寸、目重瞳子、左肘有肉印」である。「左肘の肉印」は後に亀茲国攻めにおいて「巨覇」という文字を成すものであり、これはこれで非常に興味深い異相ではあるが、本章では「呂光重瞳」という点に絞って考察する。

 この記述には、まず二点の問題が浮かび上がる。第一の問題は「呂光重瞳」は真実であるか、第二の問題は「呂光重瞳」が実際に彼に具わっていたと考えられないならば、どのような意図背景があって付与されたものか、である。

 第一の問題を論ずることは、当然困難を極める。当時の記録者がどのような状態を重瞳として捉え、記録したかについては永久に判明することはない。実際に呂光を目にしない限りは論証することが不可能な問題ではあるが、重瞳が現実的にあり得る状態なのかどうかについては最低限論じておきたい。

 こうした問題に取り組む前に、まずは重瞳について三点の整理が必要である。一点目は史料的な整理、二点目は状態解釈の整理、三点目は意図理解の整理である。順番に整理していく。

 一点目の整理について。「重瞳」と記されている現在最古の史料は『史記』であるが、重瞳と同じような意味の語句が記されている最古の史料となると戦国時代の『荀子』と『尸子』の以下の箇所になる[i]。書き下しは省略する。

堯舜參牟子。(『荀子』巻第三、非相篇)

舜兩眸子、是謂重明。(『尸子』巻下)

その他漢代だけでも『淮南子』、『白虎通』、『論衡』等多くの文献に見られる。先に引いた『論衡』非相篇冒頭の「傳言」からも分かるように、この時期には重瞳は異相として広く伝わっていたようである[ii]

 次に重瞳人物一覧表を作成した。基本的に正史に記述のある人物を対象にしているが、『荀子』、『劉子』 といった正史ではない文献も一部参照した。正史に記述のない場合は背景を灰色としている。また蒼頡は『論衡』に「四目」との記載が見られる。そのまま読めば「四つの目」であるので重瞳ではない可能性が高いが、ひとまず記載した。なお、沈約や李煜は片目のみが重瞳であったと記述されている。

 

(表3)正史登場の重瞳人物表

人物

活躍年代

代表的出典文献

成立年代

描写

蒼頡

古代

『論衡』

後漢

「四目」

古代

荀子

戦国

「参牟子」

古代

『尸子』『荀子』『史記

戦国、前漢

「兩眸子」「参牟子」「重瞳」

顔回

春秋

『劉子』

 

項羽

秦漢

史記

前漢

 

王莽

漢(新)

『論衡』

後漢

 

呂光

五胡十六国後涼

『晋書』

 

沈約

南北朝

梁書』『南史』

南北朝、唐

「左目重瞳子

魚俱羅

『隋書』『北史』

 

朱友孜

五代十国後梁

『旧五代史』『新五代史』

北宋

 

劉旻

五代十国北漢

『新五代史』

北宋

 

李煜

五代十国南唐

『新五代史』

北宋

「一目重瞳子

明玉珍

元(夏)

『明史』

 

※晋文、趙怡氷氏の作成した重瞳人物表を参考に作成[iii]

 

 正史に重瞳と記録のある人物は九名と、非常に少ないことが分かる。『荀子』の堯、『劉子』の顔回、『論衡』の王莽の三名の重瞳は正史に記述が無く、また他の文献にもほとんど見ることができない。また皇帝や皇族といったように、高位の人物が多いことも特徴である。高位ではない、また高位に登らなかった人物は顔回、沈約、魚倶羅の三名のみで、後は皇帝や皇族、王位に就いた人物である。

 その他、五代十国時代に重瞳の人物が多いことも見て取れるが、五胡十六国の異相を論じる都合上、呂光以降の重瞳については、ここではこれ以上言及しない。しかし重瞳という異相が時代を通して非常に希少なものであったことは理解しておく必要がある。

 

 二点目の整理について。重瞳の状態はいかなるものであるか。「瞳が重なっている」という字句通りの解釈をすれば、一つの目に二つの瞳孔が重なった状態ということである。しかし実際にはそういった状態はあり得ないといった意見が多くの研究者に見られる。それ故に代替する様々な合理的解釈が提示されている。

 郭沫若や楊振国は「目線が重なる」という意味として「対眼」、いわゆる内斜視の事ではないかと解釈している[iv]。また王雲度は先天性白内障という解釈をしている[v]。日本では海音寺潮五郎が、虹彩が薄い為に瞳孔が際立っていることであるとしており[vi]、佐竹靖彦は激しい感情の起伏によって瞳孔が収縮すること、感情の起伏が激しい人物を指すと論じた[vii]

 諸氏は「一つの目に二つの瞳が存在する状態は存在しない」という前提を基に論じている。合理的解釈ではあるが論拠に乏しく、全て想像の域を出ていない。その上「重瞳が現実的にあり得ない」という前提条件はそもそも誤りであり、瞳孔が複数存在する症状は医学的に存在している。

 眼科学の教科書である『標準眼科学』には「多瞳孔症」(polycoria)という症状が記載されている[viii]。それによると、先天性または虹彩角膜内皮症候群、緑内障のレーザー手術によって見られる症状だという。瞳孔が複数存在する、重瞳の状態は現実的に存在しうる。滝川亀太郎も『史記会注考証』の「舜目蓋重瞳子」の注に次のように記している。

荀子非相篇、堯舜三牟子、尚書大傳、舜四瞳子淮南子、舜二瞳子、是謂重明、所言不同、余聞之醫生、今人二瞳三瞳者往往而有。(『史記会注考証』、『史記項羽本紀「舜目蓋重瞳子」注)

荀子非相篇は、堯舜三牟子と、尚書大傳は、舜四瞳子と、淮南子は、舜二瞳子、是れ重明と謂うと、言う所同じくせず、余は之を醫生に聞く、今人二瞳三瞳は往往にして有りと)

 しかし、多瞳孔の状態が存在しうるからと言って、実際に項羽や舜が多瞳孔であったとは言い切れない。多瞳孔は極めて稀な症状であるし、そもそも瞳孔が複数存在しているので視野が通常とは異なるか、視力が低い状態となる[ix]項羽は『史記項羽本紀に「籍所撃殺數十百人」と記されているように、膂力が圧倒的に強かったとされているが、果たして多瞳孔の状態でそのような戦闘ができたのかは疑問である。

 

 三点目の整理について。重瞳に与えられた意図としては、まず他の異相と同じように「帝王の異相」であることと、「舜あるいは項羽の属性」を与えるという二種類の意図が時代を通して見受けられる。

 第一の意図については1章でも述べたが、魏の曹植の詩「帝舜贊」を見ることでより明らかとなる。

顓頊之族、重瞳神聖。克協頑瞽、應唐蒞政。除凶擧俊、以齊七政。應曆受禪、顯天之命。(『曹子建集』巻七、帝舜贊)

(顓頊の族、重瞳神聖。頑瞽は克協し、唐に應じて蒞政す。凶を除き俊を擧げ、齊を以て七政す。曆に應じて受禪し、天の命を顯す)

 ここには「重瞳神聖」という句があり、明らかに重瞳が神聖であるという意識に基づいて詠まれていることが読み取れる。

 第二の意図は、重瞳の人物の中でもとりわけ舜と項羽の存在が大きいことに由来している。古代の聖王である舜と英雄である項羽、この両者に勝るイメージを獲得できる重瞳人物は登場することはなかった。宋代の類書である『事文類聚』には「堯舜異相」として、以下のように記している。書き下しは省く(小字は原文ママ)。

堯眉八彩。舜重瞳子淮南子項羽亦重瞳子(『新編古今事文類聚』巻三十八、説相者、技芸部)

 こうした意図が存在していたことは確かである。だが、また同時に否定的意識も少数ではあるものの存在することは注意しなければならない。明の謝肇淛が記した『五雑組』は以下のように記す。

舜重瞳子、蓋偶然爾。未必便爲聖人之表也。後世、君則項羽、王莽、呂光、李煜、臣則沈約、魚倶羅、肅友孔[x]、皆云重瞳、而不克終者過半、相何足據哉。(『五雑組』巻五、人部一)

(舜重瞳子は、蓋し偶然のみ。未だ必ずしも便ち聖人の表爲らざるなり。後世、君は則ち項羽、王莽、呂光、李煜、臣は則ち沈約、魚倶羅、肅友孔、皆重瞳と云うも、しかして克く終えざる者過半なり、相何ぞ據足るか)

 重瞳についての整理は以上である。第一の問題をあえて結論づけるならば次のようになる。重瞳という状態は現実的に存在するが、極めて稀なものである。後涼創始者である呂光が偶然重瞳であったという可能性よりも、何らかの要素として付与されている可能性の方が高い。その具体的な意図については3節で論じていく。

 

第2節:呂光重瞳の発祥地

 第二の問題に取り組む前に、2節ではさらに文献整理の作業を試みなければならない。それは1章4節でも述べた『晋書』載記の信憑性に関わるものである。すなわち「呂光重瞳」という記述はどこから来たのかという問題である。その為『五胡十六国覇史輯佚』から呂光にまつわる「覇史」を収集した。それにより最も一次史料に近い覇史を特定し、さらに「呂光重瞳」記事の発祥地の特定を試みる。

 『五胡十六国覇史輯佚』から、呂光に関する記事を収集した。その結果、呂光に関する記事は『涼州記』(段亀龍)、『涼州記』(著者無記載)、『涼記』、『秦記』、『三十国春秋』、『十六国春秋』の六書からの引用であることが判明した。引用回数は『秦記』、『三十国春秋』は共に一条、『涼記』は三書三条、『涼州記』は著者無記載も含めると五書二十二条、『十六国春秋』は四書十四条であった[xi]。『涼州記』という史書が『十六国春秋』よりも多く引用されていることが判明した。

 『隋書』経籍志の覇史を見てみると、「涼記」や「涼書」といった題名の覇史は幾つか存在するが、後涼について記されている覇史は以下の一書のみである。書き下しは省く。

『涼記』十卷記呂光事。偽涼著作佐郎段龜龍撰。(『隋書』巻三十三、経籍志二史部)

 呂光について記された『涼州記』(段亀龍)、『涼州記』(著者無記載)、『涼記』の三書が同一書物の別表記であることは疑いない[xii]

 「偽涼著作佐郎段龜龍撰」とあるが、ここでの偽涼は北涼を指すと思われる。清の張澍が『涼州記』引用文を収集した二酉堂叢書の『涼州記』には「北涼段龜龍」と明記されているが、その論拠は見当たらなかった[xiii]。ただ、前王朝の歴史を編纂するという史書の慣例からすれば北涼の人物であるのは間違いないだろう。

 『涼州記』が北涼で編纂されたものならば、これは北涼政権が後涼の後継であることを示す為に編纂した正当な史書である。『十六国春秋』は1章4節でも述べたように各国の史書をまとめた書であるので、『十六国春秋』後涼録はこの『涼州記』を参考に編纂されたと見てよい。

 そして「呂光重瞳」記述の初出は『涼州記』であった。恐らく『十六国春秋』も『晋書』載記もこの『涼州記』の記述を踏襲していると見られる。載記と同内容の為、書き下しは省く。

涼記曰、呂光字世明、連結、身長八尺四寸、目重瞳子、左肘生肉印(『法苑珠林』巻五、六道篇第四、第二人事部、S0001)

涼記云、呂光字世明、連結豪賢、身長八尺四寸、目有重瞳、肘生肉印有左臂。(『義楚六帖』巻十四、人事親朋部二十八、g0001)

涼州記曰、呂光字世明、連結豪賢、好施待士、身長八尺四寸、目重瞳子、左肘生宍印。(『太平御覧』巻三百七十七、人事部十八、i2042)

 このように「呂光重瞳」記述は『涼州記』が初出である。この異相を誰が付与したかについては明確ではない。しかし少なくともこの記述が北涼の時代には存在しており、また涼州が発祥地であることの二点は疑いない。

 

第3節:仏教と重瞳

 それでは第二の問題である、「呂光重瞳」にはどのような意図背景があって付与されたものであるか、という点について論じていきたい。

 結論から述べると、「呂光重瞳」には舜や項羽といった先人達との重複要素の他に、仏教的要素が含まれている可能性が高い。

 

 まず、仏教の高僧には、重瞳を持つ者が非常に多い。『大正新脩大蔵経』内の仏教文献には、「重瞳」という記述のある中国の高僧が五名も記録されている。

(表4)『大正新脩大蔵経』における高僧の重瞳人物

人物

活躍年代

代表的出典文献

成立年代

僧実

周京師大追遠寺

西魏

『続高僧伝』

如訥

湖州道場山

『景徳傅燈録』

北宋

智顗

天臺山國清寺

『続高僧伝』

業方

五臺山昭果寺

『宋高僧伝』

北宋

智常

廬山歸宗寺

『仏祖統紀』

南宋

 

 正史に記述されている重瞳人物がわずか九名ということを考えれば、重瞳である高僧の多さは明らかである。これは日本の高僧においても同様で、天台宗の智澄大師円珍、また曹洞宗の開祖である道元にも重瞳の記述が見られる[xiv]

 以上のように、高僧と重瞳には深い関連性があることが分かるが、問題点も生じる。第一の問題として、重瞳の高僧は時代としては西魏や梁が上限であるということ。梁以前の高僧を集めた梁の慧皎が編纂した『高僧伝』には記録が見えない。つまり五胡十六国という時代には安易に当てはめることができないのである。第二の問題として、仏教と重瞳にはどのような関係があるのかという点である。何らかの仏教的意味があるからこそ、高僧に重瞳が与えられているはずである。

 

 第一の問題については2節で見たように、「呂光重瞳」の記述が涼州を発祥地としているという点を鑑みれば説明することが可能である。

 仏教が中国に伝来したのは西暦紀元前後であるが、本格的に中国社会に浸透して影響力を持ち始めたのは、五胡十六国涼州政権による西域経営の結果であるとされている[xv]。すなわちこの時代の涼州は仏教の流入地であり、中国において仏教が最も盛んな地だったのである。とすれば、その他の地域に仏教と重瞳の関係性が見られずに、涼州の地にしか見られなかったとしてもさほど不自然ではない。

 またこの時代の涼州には高名な仏教僧として鳩摩羅什も居た。羅什は苻堅に西域遠征を決断させたほどの人物であった。それによって当時前秦の将であった呂光が派遣され、後に後涼を建てることになる呂光と関わりの深い人物である。羅什は後涼政権下で十五年涼州に居り、予言者的存在として重用されていた。これらの史実からいって、羅什は後涼政権に大きな影響を与えていたと思われる。

 

 第二の問題、重瞳の仏教的意味を考えたい。「重瞳」という語は中国由来であり、仏典には全く見受けられない。しかし、重瞳と似た異相が「相好」にある。

 相好とは、正確には「三十二相八十種好」といい、仏に具わる容貌特徴のことである。三十二のはっきりと判別できる身体特徴と、八十の微細な身体特徴に分かれている。具体的な列挙特徴には多少の異同があり、また八十種好は正確に八十種類並べられていない場合もある[xvi]。本論では、龍樹著、鳩摩羅什漢訳による、『摩訶般若波羅蜜経』(二万五千頌般若経)の注釈書である『大智度論』に記載されている相好を引く。

 その三十二相の一つとして「真青眼相」というものがある。これは青蓮のような眼を指す。『大智度論』巻四では三十二相の二十九番目として挙げられている。

二十九者眞靑眼相。如好靑蓮華。(『大正蔵』二十五巻、九十一頁、上段)

(二十九は眞靑眼相なり。好い靑蓮華の如し)

この相は釈迦の十大弟子である阿難(アーナンダ)を歌った偈頌にも現れる。以下も『大智度論』、巻三からの引用である。

面如淨滿月、眼若靑蓮華。(『大正蔵』二十五巻、八十四頁、上段)

(面は淨滿月の如く、眼は靑蓮華の若し)

 このように、三十二相の一つである真青眼相とは「青蓮の眼」を指した。そしてこの「青蓮の眼」が、重瞳と同一視されていたようである。その根拠は、唐の詩人である王勃の「観音大士讚」中の記述である。この讃は元の盛熙明の『補陀洛迦山伝』に収録されている。その中に観音菩薩の身体特徴として、以下の記述が見られる。

目紺重瞳、似水面之青蓮、乍秀。(『大正蔵』五十一巻、千百三十九頁、上段)

(目は紺にして重瞳、水面の青蓮に似たり、乍秀づ)

 明らかに重瞳と水面の青蓮を重ねている。重瞳と蓮華は実際の状態としては連想しにくいが、恐らくこれは蓮華の花弁の重なりと、重瞳の「瞳が重なる」という字句上の意味からの連想ではないかと考えられる。

 このように、重瞳は仏の相好である真青眼相との同一視、連想が見られる異相であった。

 2節では呂光重瞳の発祥地を涼州、初出を段亀龍の『涼州記』と特定したが、重瞳を付与した存在については「明確でない」と回答を保留した。仏教と涼州、重瞳の関連を指摘した3節においてあえて論を述べるならば、呂光重瞳の記述は、後涼側もしくは後涼に近い人物が付与した異相である可能性が高いと言える。

 通常、異相の付与者については、(1)自政権側が付与した、(2)史書を記した継承政権側が付与した、(3)後世の人物が付与した、という三点の可能性がある。呂光重瞳に関して言えば、(1)以外はあり得ない。なぜならば、上で述べてきたような意味を含む「重瞳」という異相は、自政権側が付与しない限り意味を成さないからである。(2)の継承政権、すなわち北涼が呂光に重瞳を与えても意味がない。また(3)は『涼州記』の存在から否定できる。

 後涼が与えたと仮定すれば、政権運営に効果的という面で意味が生じ、自然な解釈となる。また、政権内には鳩摩羅什も参与していた。彼は神異的予言者、あるいは軍師的存在として政権に関与していたようである。『晋書』鳩摩羅什伝には羅什の予言が見られる。

光欲留王西國。羅什謂光曰「此凶亡之地、不宜淹留、中路自有福地可居」光還至涼州

聞苻堅已爲姚萇所害、於是竊號河右。屬姑臧大風、羅什曰「不祥之風當有姦叛、然不勞自定也」俄而有叛者、尋皆殄滅。(『晋書』巻九十五、芸術伝、鳩摩羅什伝)

(光は留まりて西國に王たらんと欲す。羅什は光に謂いて曰く「此れ凶亡の地、宜しく淹留せず、中路自ら福地有り居るべし」と。光は還りて涼州に至り、苻堅は已に姚萇に害せらる所を聞き、是に於いて竊に河右を號す。姑臧大風屬き、羅什曰く「不祥の風は當に姦叛有り、然れども勞せずして自ら定まるなり」と。俄に叛有る者、尋いで皆殄滅す)

 鳩摩羅什が呂光に重瞳を付与したとは言い切れないが、少なくとも政権内に仏教的要素が入る余地が存在したことは事実である。

 しかし、重瞳に仏教的要素が想起されるからといって、従来の重瞳に含まれる意味であるところの「優れた人物を表す異相」や「舜や項羽を連想させる異相」という要素が含まれていないかというと、それは間違いであるだろう。やはり重瞳の異相において、舜や項羽の連想というものは拭いきれるものではない、というのは1節で確認した通りである。

 以上の検討結果からみて、呂光重瞳は、三十二相の一つである真青眼相との同一視による仏教的要素と、舜や項羽を連想させる従来の中国的要素が組み合わさったものであり、それは後涼政権内から、その効果的支配の為に生み出された可能性が高い、ということになる。

<続く>

 

[i] 滝川亀太郎の『史記会注考証』は「參」を「数字の参」と取り「三牟子」としているが、それよりは「參」を「まじわる」の義と取り「ひとみがまじわる」、すなわち重瞳と取る方がより腑に落ちる理解である。また現在残っている『尸子』では「重明」と記されているが『史記集解』では「尸子曰舜兩眸子、是謂重瞳。」とある。本来は「重瞳」と記されていたのか、裴駰の誤りであるかは不明である。『太平御覧』はこの箇所を「重明」と引いている。

[ii] 「舜二瞳子、是謂重明。」(『淮南子』巻三、脩務訓)、「又聖人皆有異表。(中略)堯眉八彩是謂通明、歴象日月璇璣玉衡、舜重瞳子是謂滋涼」(『白虎通』巻三上、聖人)

[iii] 晋文、趙怡氷「重瞳記載的起源・内包与転変」(中国史研究、2014年第2期)。両氏が作成した表は人物の身分を重視した並びとなっている。

[iv] 郭沫若「楚覇王自殺」(『郭沫若全集』文学編第10巻、人民文学出版社、1985年9月所収。初出は1936年9月)の短編での作者注において重瞳を「対眼子的意思」としている。楊振国「”重瞳”再訓」(内蒙古民族師院学報、1993年第2期)は「重」と「斗」の字には意味の重複が見られることから重瞳は「斗眼」、内斜視を意味したのではないかと述べている。

[v] 王雲度「論項羽的英雄気概」(『項羽研究』第1輯、鳳凰出版社、2011年5月)では、先天性白内障によって水晶体に点状の混濁が発生した状態があたかも瞳が重なっているように見えたのではないかと述べている。

[vi] 海音寺潮五郎『中国英傑伝 上』(文藝春秋、1971年1月)に「ひとみが重なっている目がある道理がない。おそらく黒目が黄みを帯びた薄い茶色なので、中心にある眸子がくっきりときわ立ち、あたかも瞳が重なっている漢字に見える目を言うのであろう」とある。

[vii] 佐竹靖彦『項羽』(中央公論新社、2010年7月)では「もしこの言い伝えが何らかの意味をもっていたとすると、考えられるのは、舜や項羽は感性ゆたかな強い感情をもつ男であり、かれらが怒りを発したときには、その瞳は針のさきのように小さく射るような眼光を発し、親しみをもって人に接するときには、瞳は温かみを帯びて目一杯に広がったということである。あたかも二つの違う瞳をもつように感じられるので、人びとはこれを小さな瞳と大きな瞳が重なった人間だと表現したのではないだろうか。」とある。

[viii] 木下茂、中澤満、天野史郎『標準眼科学 [第12版]』(医学書院、2013年3月)

[ix] 松田久美子他「先天性多瞳孔の1例」(眼科臨床医報、1978年72-4号)、新保信夫「多瞳孔の1例」(眼科臨床医報、1964年58-1号)に多瞳孔の症例が報告されている。後者の論文には、多瞳孔の患者について「生来両眼視力が悪く、検眼のため来訪した」と記されている。

[x] 「肅友孔」は朱友敬(友孜)を指すと思われる。

[xi] 呂光の記事が引用されていた典籍は以下の12書である。『北堂書鈔』(隋、虞世南)、『藝文類聚』(唐、欧陽詢ら)、『辯正論』(唐、法琳)、『法苑珠林』(唐、道世)、『肇論疏』(唐、元康)、『沙州圖經』(唐、選者未詳)、『初學記』(唐、徐堅ら)、『義楚六帖』(後周、釈義楚)、『太平御覧』(北宋、李昉ら)、『太平寰宇記』(宋、楽史)、『資治通鑑考異』(北宋司馬光)、『説郛』(明、陶宗儀)。当然全てを蒐集した訳ではないがおおよそのカバーはできていると考える。

[xii] 『隋書』経籍志に記録されていた段亀龍撰『涼記』は、『旧唐書』経籍志には見受けられないものの、『新唐書』芸文志にはその名が記録されている。『宋史』芸文志になると他の五胡十六国史書と同様にその名を見出すことはできなくなる。

[xiii] 段亀龍撰、張澍輯『涼州記』(二酉堂叢書、百部叢書集成50、藝文印書館、1967年)

[xiv] 道元については、曹洞宗の瑩山紹瑾が著した『伝光録』巻下に「師諱道元。(中略)正治二年初テ生ル時ニ。相師見奉テ曰。此子聖子也。眼ニ重瞳アリ。必ズ大器ナラン」(『大正蔵』八十二巻、四百五頁、上段)とある。円珍については田口秀夫「重瞳の系譜」(室町芸文論攷、1991年)では、三善清行の撰んだ「天台宗延暦寺座主円珍伝」の「両目有重童子」の記述等を引いている。

[xv] 三崎良章『五胡十六国国史上の民族大移動 [新訂版]』(東方書店、2012年10月)

[xvi] 本庄良文「シャマタデーヴァの伝へる阿含資料─世品(3)仏の相好─」(神戸女子大学紀要、1990年24L巻)にある偈頌には八十種好に番号が振られているが、その数は七十七に留まる。

五胡十六国における異相(3)

第2章:五胡十六国の異相

第1節:『晋書』載記の異相人物

 それでは五胡十六国における異相を具える人物について概観したい。まず『晋書』載記をもとに、五胡十六国の異相人物表を作成した。表に記載したのは身長、腰帯、具体的な身体的特徴の三点である。

 

(表1)『晋書』載記の異相人物表

載記

人物

身長

腰帯

具体的な身体特徴

第一

劉淵

八尺四寸

 

鬚長三尺餘,當心有赤毫毛三根, 長三尺六寸

 

劉和

八尺

   
 

劉宣

     

第二

劉聡

   

左耳有一白毫,長二尺餘,甚光澤

 

劉粲

     
 

陳元達

     

第三

劉曜

九尺三寸

 

垂手過膝,生而眉白,目有赤光,鬚髯不過百餘根, 而皆長五尺

第四、五

石勒

     

第六、七

石虎

七尺五寸

   
 

石世

     
 

石遵

     
 

石鏖

     
 

冉閔

八尺

   

第八

慕容廆

八尺

   
 

裴嶷

     
 

高瞻

八尺二寸

   

第九

慕容皝

七尺八寸

 

龍顔版歯

 

慕容翰

     
 

陽裕

     

第十

慕容儁

八尺二寸

   
 

韓恒

八尺一寸

   
 

李産

     
 

李績

     

第十一

慕容暐

     
 

慕容恪

八尺七寸

   
 

陽騖

     
 

皇甫眞

     

第十二

苻洪

     
 

苻健

     
 

苻生

   

生無一目

 

苻雄

     
 

王堕

     

第十三、十四

苻堅

   

背有赤文,隱起成字,曰,草付臣又土王咸陽.臂垂過膝,目有紫光

 

王猛

     
 

苻融

     
 

苻朗

     

第十五

苻丕

     
 

苻登

     
 

索泮

     
 

徐嵩

     

第十六

姚弋仲

     
 

姚襄

八尺五寸

 

臂垂過膝

 

姚萇

     

第十七、十八

姚興

     
 

尹緯

八尺

十囲

 

第十九

姚泓

     

第二十

李特

八尺

   
 

李流

     
 

李庠

     

第二十一

李雄

八尺三寸

   
 

李班

     
 

李期

     
 

李壽

     
 

李勢

七尺九寸

十四囲

 

第二十二

呂光

八尺四寸

 

目重瞳子,左肘有肉印

 

呂纂

     
 

呂隆

     

第二十三

慕容垂

七尺七寸

 

手垂過膝

第二十四

慕容寶

     
 

慕容盛

六尺

   
 

慕容熙

     
 

慕容雲

     

第二十五

乞伏国仁

     
 

乞伏乾歸

     
 

乞伏熾磐

     
 

馮跋

     
 

馮素弗

     

第二十六

禿髮烏孤

     
 

禿髮利鹿孤

     
 

禿髮傉檀

     

第二十七

慕容徳

八尺二寸

 

額有日角偃月重文

第二十八

慕容超

八尺

九圍

 
 

慕容鍾

     
 

封孚

     

第二十九

沮渠蒙遜

     

第三十

赫連勃勃

八尺五寸

十圍

 

 

(表2)「覇史」にのみ見られる異相、拓跋什翼犍の異相表

人物

身長

腰帯

具体的な身体特徴、出典

苻雄

   

雄醜形貌,頭大足短,故軍中稱之爲大頭龍驤
(『太平御覧』、引『十六国春秋』前秦録、i4014)

王謨

   

甕鼻,言不清暢(『太平御覧』、引『十六国春秋』後趙録、i4019)

王鸞

九尺

十圍

(『太平御覧』、引『三十国春秋』、i4044)

鹿縕

八尺

十圍

(『太平御覧』、引『十六国春秋』前秦録、i4045)

乞活夏黙

一丈三尺

 

(『太平廣記』、引『十六国春秋』前秦録、h0002)

護磨那

申香

劉皇后

七尺八寸

 

手垂過膝
(『太平御覧』、引『三十国春秋』前趙録、i2069)

拓跋什翼犍

八尺

 

隆準龍顏,立髮委地,臥則乳垂至席。
(『魏書』巻一、序紀)

※末尾の数字は『五胡十六国覇志輯佚』内での番号

 

 異相の判断基準としては、その描写が具体的であるか抽象的であるかに基づいた。「美姿貌」といった抽象的な身体描写、あるいは「博学善談論」といった人間性を表す描写は多くの人物に記載されており、修飾語または形容詞的な側面が強い為、省略している。

 『十六国春秋』等の「覇史」における異相記述の確認作業も行った。主に『五胡十六国覇史輯佚』を用い、対象とされている文献の引用箇所について照らし合わせた。その結果、具体的な身体特徴においては、唯一慕容皝を除いて、その他の異相は全て覇史の引用文に見ることができた[i]。また各種覇史引用文には、載記に記されていない異相も若干見受けられた為、表2として作成した。

 なお、あくまでも載記を対象としている為、五胡十六国の全人物を表に載せているわけではないが、可能な限り他文献に記載されている人物も参照した。載記に記されておらず『晋書』列伝に記されている五胡十六国時代の勢力は、張軌の前涼(『晋書』巻八十六)、李嵩の西涼(巻八十七)、譙縦の後蜀(巻一百)である。ただこの三政権の人物には特に異相は見受けられなかった。また拓跋猗盧が建てた代については、拓跋什翼犍のみ『魏書』本紀に異相が見られた。五胡十六国の人物である為、これも表2に付した。

 

 表を見てみると、直ちに判断できる特徴が三点ある。一点目は、君主が多数を占める載記においても、異相を持った人物は非常に珍しいということである。載記に記述されている人物は総勢七十六名。その内身長や腰帯を除いた具体的な身体特徴が記されている人物は僅かに十名のみである。載記の人物はそのほとんどが天王や皇帝等、高位に就いた君主達であり、その点を鑑みても異相を持った人物が限られていることが分かる。

 二点目は、冒頭で例に挙げたように「垂手過膝」の人物の多さである。異相を持った十名の内四名が垂手過膝の相を持っている。四名の記述は、字句こそ異なるが同じ体格を表しているのは明らかであり、五胡十六国時代において垂手過膝という身体描写が重要な意味を有していたことは間違いない。

 三点目として、身長や腰帯といった描写も、異常であるが故に記録されているということが確認できる。載記において身長が記載されているのは二十二名。その平均値を計算すると八尺一寸となる。これは明らかに高身長である。一尺を約24cmと仮定しても190cm程度になる。これは腰帯についても同様で、例えば成漢五代皇帝である李勢の記述を見ると、当時の人々が李勢の「腰帯十四囲」という体格を異常と見なしていた記述がある。

勢身長七尺九寸、腰帶十四圍、善於俯仰、時人異之。(『晋書』巻一百二十一、李勢載記)

(勢は身長七尺九寸、腰帶十四圍、俯仰において善く、時の人之を異とす)

 ちなみに腰帯とは革の大帯、すなわち盤帯のことであるが、「腰帯十囲」といったように、人物のウエストの太さを示す表現に使用された。「囲」という単位の数値については諸説あり明確な値を示すことはできないが、『漢書』成帝紀では大木の太さを十囲と記しており、腰帯十囲という表現が相当な太さのウエストを示していることが伺える。

是日大風,拔甘泉畤中大木十韋以上。[注]師古曰、韋與圍同。(『漢書』巻十、成帝紀第十)

(是の日の大風は、甘泉畤中の大木十韋以上なるを抜く。[注]師古曰く、韋と圍は同じ)

 

第2節:五胡十六国における異相

 それでは五胡十六国における異相において、重瞳と垂手過膝以外の異相についての解釈と、幾つかの共通項を見ていきながら、五胡十六国における異相の新しい潮流について指摘したい。

 漢(劉曜以降は前趙)を建てた劉淵、三代皇帝劉聡、そして五代皇帝である劉曜の三名の異相は、全て髭に言及されているという共通項が見られる。

 まず劉淵は身長八尺四寸である他、髭の長さが三尺余り、髭の中心には赤い毛が三本あり、長さが三尺六寸であったとされている。劉聡は左耳に光沢のある白い毛が一本あり、長さが二尺余りであったという。劉曜は垂手過膝であり、生まれつき眉が白かった。目には赤い光を宿し、髭は百本余りであったが皆長さ五尺ほどであったと記されている。

 前趙の六名の皇帝在位年数は、劉淵が約六年(304年10月~310年6月)、劉聡は丸八年(310年7月~318年7月)、劉曜は約十年(318年10月~328年7月)である。残りの劉和、劉粲、劉熙は短い在位期間であった。長い期間政権に影響を与えた三名が、共に髭に関する異相を具えていたことを考えると、この三異相は前趙側が付与した異相という可能性が高い。

 彼らの民族としての容貌、習慣が関わっていることも無視できない問題だが、その可能性は比較的薄い。劉元海載記によると劉氏は「新興匈奴人(「新興」は地名)」であり、その祖は南匈奴の左賢王、劉淵の父である劉豹である。実は夏の創始者である赫連勃勃も同族であったようで、彼の載記には以下のように記されている。

赫連勃勃字屈孑、匈奴右賢王去卑之後、劉元海之族也。(『晋書』巻一百三十、赫連勃勃載記)

(赫連勃勃字は屈孑、匈奴右賢王去卑の後、劉元海の族なり)

 彼の祖は劉豹と同時期に右賢王であった去卑であり、系譜的にはかなり離れてはいるものの、劉淵と同族であった[ii]。しかし、その赫連勃勃には髭に関する異相が描かれていない。髭に関する三異相は民族に関係せず、前趙にしかない独自のものである。前趙政権にとって髭が何らかの特別な意味を持っていた可能性がある。

 

 氏族単位で見た場合、次に異相が多く見られるのは鮮卑慕容氏である。彼らの特徴は、漢代までの相術、受命思想から由来する古典的異相が目立つことである。慕容氏で異相を備えているのは三名で、「龍顔版歯」であった前燕創始者である慕容皝、その五男で後燕を創始する慕容垂は垂手過膝、慕容皝の末子で南燕創始者である慕容徳は額に「日角偃月重文」があったと記述されている。

 慕容皝の「版歯」は板状の歯、すなわち帝嚳が具えていたとされる「駢歯」と同様の意味である。また慕容徳の「偃月」は額の骨が半月状になっていることであり、一般には貴女の相とされる。同じ異相を持つとされるのは後漢順帝の皇后であった順烈皇后のみである。

若乃其眉目、準額權衡、犀角偃月、彼乃帝王之后、非諸侯之姬也。(『戦国策』巻三十三、中山策)

(若乃ち其の眉目、準額權衡、犀角偃月にして、彼は乃ち帝王の后、諸侯の姬に非ざるなり)

永建三年、與姑俱選入掖庭、時年十三。相工茅通見后、驚再拜賀曰「此所謂日角偃月、相之極貴、臣所未嘗見也」(『後漢書』巻十下、順烈梁皇后紀)

(永建三年、姑と俱に掖庭に選び入り、時に年十三。相工の茅通后を見、驚き再拜し賀して曰く「此れ所謂日角偃月にして、相の極貴なり、臣未だ嘗て見ざる所なり」と)

 「重文」と記されているので、慕容徳は日角と偃月の二相が額に重なった状態であったのだろう。貴女の相が具わっていることには疑問が残るが、ともかく垂手過膝を除けば、龍顔版歯、額有日角偃月重文のどちらも五胡十六国には珍しい古典的異相であることは間違いない。これは何を意味するか。恐らく慕容氏側の漢化政策が影響を与えていると思われる。

 三崎良章氏は、前燕建国前の慕容政権で漢人士人を積極的に活用する政策が採られたことを指摘している[iii]。氏によれば「慕容廆は前趙後趙とは異なり、遼東・遼西で支配を確立していく過程で、中原の混乱を逃れてきた漢人士人を政権に組み入れた」とある。漢化政策自体は五胡十六国においてはよく見られるものだが、慕容政権は帝王の身体描写という面においても、古典的異相を持ち出すことで漢化政策を打ち出したのではないだろうか。

 

 さて、3章、4章で取り上げる垂手過膝と重瞳の異相人物を除けば、残る載記の異相人物は前秦の二代皇帝である苻生のみである。ただし苻生の異相は他とは明らかに趣が異なっている。

 載記によると苻生は片目であった。これは2章3節でも述べた否定的な相、すなわち単なる身体障害として見なされていた可能性が高い。実際、苻生載記からは祖父である苻洪が彼を極度に嫌っていたことが記されている。

生字長生、健第三子也。幼而無賴、祖洪甚惡之。生無一目、爲兒童時、洪戲之、問侍者曰「吾聞瞎兒一淚、信乎?」侍者曰「然」。生怒、引佩刀自刺出血、曰「此亦一淚也」洪大驚、鞭之。(『晋書』巻一百十二、苻生載記第十二)

(生字は長生、健の第三子なり。幼くして無賴、祖の洪は甚だ之を惡む。生は一目無し、爲めに兒童の時、洪は之に戲れ、侍者に問いて曰く「吾瞎兒は一淚と聞く、信なるや?」と。侍者曰く「然り」と。生は怒り,佩刀を引き自ら刺し血を出だして、曰く「此れまた一淚なり」と。洪は大いに驚き、之を鞭うつ)

 苻生は幼少時から無頼者で祖父の苻洪からは嫌われており、また片目であった。苻洪は幼少の苻生を「片目の子供は涙を片方から出さないというが本当だろうか」とからかった。すると苻生は自らを刀で刺し出血させ「これがもう片方の涙です」と反撃した、という凄烈なエピソードがあり、明らかに片目であることがマイナス評価を受けている。

 苻生は暴虐な君主であった為、苻堅により倒された。それを踏まえると苻生の異相は、暴虐な君主であったが為にマイナス評価の異相が後付されたか、現実的に片目で周囲から忌み嫌われた影響で暴虐な君主になったという両方の可能性が存在し、そのどちらの可能性も否定しがたい。しかし、彼の名は苻「生」、さらに字は「長生」である。これは出生時に片目という不具であったが為の、長命を願っての命名と考えるならば、後者の可能性が強まるだろう。

 その他載記に記録されていなかった異相については簡単に訳文を示すに留めたい。『太平御覧』『太平広記』中で引用されていた典籍は『十六国春秋』、『三十国春秋』の二書である。

 苻堅の父である苻雄は容貌が醜く、頭が大きく短足であった。その為に軍中では「大頭竜驤」と苻雄を称した。後趙の王謨は甕鼻(匂いの分からない鼻、つんぼはな)であり、その為喋る言葉も綺麗で流暢ではなかった。南燕の王鸞、前秦の鹿縕はそれぞれ『太平御覧』の「長中国人」の項において長身人物とされている。劉曜の后である劉皇后は手垂過膝であった。苻堅の将であり異民族の乞活夏黙、護磨那、申香の三将は一丈三尺という人並み外れた高身長であった。代の八代王である拓跋什翼犍は隆準龍顔で、立てば髪が地に着くほど長く、臥せれば乳がむしろに垂れるほどであったという。

 

 ここまで表を作成し、一通り概観した。身長、腰帯を除いたこの時代の具体的異相をまとめると、劉氏の髭に関する異相、慕容氏の古典的異相、垂手過膝、呂光の重瞳、苻生のマイナス的異相の五点となる。垂手過膝と重瞳については後述するが、各異相には政治的意図、現実的問題といった様々な意図が含有されている可能性がある。そして1章で見たような漢代までの異相が、慕容氏を除いてほとんど見受けられなくなっているという事実が明確になった。

 以上の検討結果から、五胡十六国において異相の潮流には、確実に新たな流れが発生していると結論づけられる。そこで、次章から呂光重瞳、そして五胡十六国で最も流行した異相である垂手過膝の両潮流について検討していく。

<続く>

 

[i] 基本的に慕容皝以外は『太平御覧』中の『十六国春秋』引用文に見受けられた。『五胡十六国覇史輯佚』内の番号はそれぞれ以下の通りである。 劉淵(i2001)、劉聡(i2002)、劉曜(i2003)、苻生(i2015)、苻堅(i2016)、姚襄(i4164、i4025)、呂光(i2042)、慕容垂(i2045)、慕容徳(i2053)

[ii]『太平御覧』巻一二七偏覇部に引かれている『十六国春秋』夏録には、「祖父豹」との記載がされているが、劉豹のことではなく劉豹子(『魏書』『北史』では劉務桓)という別人である。

[iii] 三崎良章『五胡十六国国史上の民族大移動 [新訂版]』(東方書店、2012年10月)、202頁。ただしこうした漢化政策は五胡の諸政権で行われていたものでもある。

五胡十六国における異相(2)

第1章:異相の整理

第1節:異相の歴史

 異相は中国史上においてどのように捉えられ、表現されてきたか。まずは古代から代表的な異相を列挙していきながら確認していきたい。

 堯や舜といった古代の帝王には、常人離れした身体的特徴が多く記されている。後漢の王充が記した『論衡』骨相篇にはその特徴がまとめられ列挙されている。

傳言、黄帝龍顏、顓頊戴干、帝嚳駢齒、堯眉八采、舜目重瞳、禹耳三漏、湯臂再肘、文王四乳、武王望陽、周公背僂、皐陶馬口、孔子反羽。(中略)蒼頡四目、爲黄帝史。(『論衡』巻三、骨相篇)

(傳に言う、黄帝は龍顏、顓頊は戴干、帝嚳は駢齒、堯の眉は八采、舜の目は重瞳、禹の耳は三漏、湯の臂は再肘、文王は四乳、武王は望陽、周公は背僂、皐陶は馬口、孔子は反羽。(中略)蒼頡は四目、黄帝の史たり)

 龍顔とは眉の骨のまるく高くなっていること、戴干は本来「鳶干」と書き、怒り肩であること、駢歯は二枚の前歯が一枚となって生えていること、八采は八の字形の眉のこと、重瞳は一つの眼に二つの瞳があること、三漏は耳に三つの穴があること、再肘は一本の腕に二箇所の肘があること、四乳は四つの乳房であること、望陽は遠望の人相であること、背僂は佝僂であること、馬口は馬のように大きな口であること、反羽は頭頂部が中くぼみになっていること、四目は四つの目があることであるという[i]

 実際に彼らがこういった身体であったか、またこれらの語句が上に挙げた解釈で正しいかどうかはともかくとして、古代の帝王や聖人達に異相が与えられていたのは確かである。こういった帝王の異相は無論王充個人の創作ではない。戦国時代の荀子が著した『荀子』非相篇、あるいは前漢の劉安が編纂させた『淮南子』脩務訓、後漢の班固が編纂した『白虎通』聖人部といったように多くの文献に見られるものである。

 

 春秋戦国時代において異相を持つ代表的な人物としては、孔子を挙げておく必要がある。孔子史書中において数多くの異相を身体に付加されている人物である。『史記孔子世家は以下のように記している。

生而首上圩頂、故因名曰丘云。(中略)孔子長九尺有六寸、人皆謂之長人而異之。(中略)孔子獨立郭東門。鄭人或謂子貢曰「東門有人、其顙似堯、其項類皐陶、其肩類子產、然自要以下不及禹三寸。纍纍若喪家之狗」(『史記』巻四十七、孔子世家第十七)

(生まれながらにして首上は圩頂、故に因りて名づけて曰く丘と云う。(中略)孔子は長さ九尺有六寸、人皆これを長人と謂いて之を異とす。(中略)孔子獨り郭の東門に立つ。鄭人或るひと子貢に謂いて曰く「東門に人有り、其の顙は堯に似、其の項は皐陶に類し、其の肩は子產に類し、然るに要より以下は禹に三寸及ばず。纍纍として喪家の狗の若し」と)

 以上の描写をまとめると、孔子は頭頂部が中くぼみになっており、身長は九尺六寸、額は堯に、首は皋陶に、肩は子産に似ており、腰より下は禹に三寸及んでいない人物ということになる。これほどまでに古代の人物と絡めて異相が盛り込まれている人物は、孔子の他に存在しない。

 また多くの異相を持つ人物という点に関しては、老子も当てはまる。『史記』には記されていないが、晋の葛洪が記したとされる『神仙伝』には、老子の身体描写にかける熱意が読み取れるほど大量の異相が老子に付与されている。

老子、楚國苦縣瀨鄉曲仁里人。(中略)身長八尺八寸、黃色美眉、長耳大目、廣額疏齒、方口厚脣、額有三五達理、日角月懸、鼻有雙柱、耳有三門、足蹈二五、手把十文。(『神仙伝』巻一、老子

老子、楚國苦縣瀨鄉曲仁里の人なり。(中略)身長八尺八寸、黃色にして美眉、長耳にして大目、廣額にして疏齒、方口にして厚脣、額に三五の達理、日角月懸有り、鼻に雙柱有り、耳に三門有り、足は二五を蹈み、手は十文を把る)

 『神仙伝』によると老子は身長八尺八寸、肌は黄色く眉は美しい。長い耳と大きい目、広い額と透き歯、四角い口と厚い唇、額は十五条の通った筋があり、さらに中央の骨が日月の形に隆起しており、鼻は高く二筋あり、耳には三つの穴、足は二五(陰陽と五行)を踏み、手には十文を握る人物であるという[ii]。意味の取りにくい語句が多く解釈は参考程度にしかならないが、少なくとも老子という人物を徹底的に標準の身体から隔絶した存在として示そうとする筆者・葛洪の意図は伝わってくる。

 秦漢時代に入っても、異相は変わらず帝王、要人に付与され続けた。例えば始皇帝前漢の高祖、後漢光武帝の身体特徴は以下の通りである。

繚曰「秦王爲人、蜂準、長目、摯鳥膺、豺聲」(『史記』巻六、秦始皇本紀第六)

(繚曰く「秦王人と爲り、蜂準、長目、摯鳥膺、豺聲」と)

高祖爲人、隆準而龍顏、美須髯、左股有七十二黑子。(『史記』巻八、高祖本紀第八)

(高祖人と爲り、隆準にして龍顏、須髯美しく、左股に七十二の黑子有り)

身長七尺三寸、美須眉、大口、隆準、日角。(『後漢書』巻一上、光武帝劉秀紀第一上)

(身長七尺三寸、須眉美しく、大口、隆準、日角なり)

 秦の始皇帝は蜂のような鼻筋、細長い目、猛禽のような胸、山犬のような声をしていると尉繚に言われている。前漢の高祖は鼻が高く、黄帝と同じ龍顔を持ち、美しい鬚であり左股に七十二個の黒子があったとされる。後漢光武帝は身長七尺三寸、美しい眉を持ち、大きな口高い鼻、そして額の中央の骨が隆起していたとされる。

 以上、五胡十六国時代に至るまでの代表的な人物の異相を確認した。こういった帝王異相描写は五胡十六国時代以降、清に至っても続くものであったが、ここでは省略する。こうした異相は独自のものもあるが、先人が既に具えていた異相という場合もあった。そして一部の例外を除き、常人離れした身体特徴はおおむね優れた異相と見なされ、また帝王等大きな影響を与えた人物は、優れた異相を必ず具え、人間として本質的に優れた人物とされたのである。

 

第2節:異相の認識

 それでは異相が歴史上どのような認識を持たれてきたかについて見ていく。

 古くから、異相はただの身体欠陥であるとする見方と、聖人性や特別性の表出であるとする見方の両方が唱えられてきた。ただし前者の立場を説いている文献は少ない。

 前者の代表としては『荀子』非相篇が挙げられる。荀子は当時流行していた、人相から吉凶を判断する「相術」を批判し、「故長短小大、善惡形相、非吉凶也」として、身体特徴から人間の吉凶を判断することはできないと説いている。また古代の帝王の異相を列挙しているが、こちらは『論衡』骨相篇とは異なり、否定的な語句を用いて描かれているものが多い。

蓋帝堯長、帝舜短、文王長、周公短、仲尼長、子弓短。(中略)且徐偃王之状、目可瞻馬、仲尼之状、面如蒙倛、周公之状、身如斷菑、皐陶之状、色如削瓜、閎夭之状、面無見膚、浮説之状、身如植鰭、伊尹之状、面無須麇、禹跳、湯偏、堯舜參牟子。(『荀子』巻第三、非相篇)

(蓋し帝堯は長、帝舜は短、文王は長、周公は短、仲尼は長、子弓は短。(中略)且つ徐の偃王の状、目は馬を瞻るべくして、仲尼の状、面は蒙倛の如く、周公の状、身は斷菑の如く、皐陶の状、色は削瓜の如く、閎夭の状、面は膚見る無く、浮説の状、身は植鰭の如く、伊尹の状、面は須麇無く、禹は跳、湯は偏、堯舜は參牟子なり)

 例えば「目可瞻馬」は首が上に向いており俯くことができないこと、蒙倛は鬼の仮面をつけていること、跳は歩行が不自由な様であること、偏は半身不随であることといったように、帝王の身体的異常性についてあえて否定的な語句を用いており、単なる身体的欠陥と捉えていることが分かる[iii]

 これに対し、異相に特別な聖人性を見出す見方の代表例としては『論衡』骨相篇がある。『論衡』は神秘的な思想や俗信について、王充自身が持つ合理的思考に沿って批評されており、社会の不合理性について徹底的な批判を加えているが、人相の分野に関しては信用を置いている。その理由は、人間が天から「受命」した際に身体にそれが表出する、という「受命思想」に基づいたものであることを王充自身が記している。

人曰命難知、命甚易知。知之何用。用之骨體。人命廩於天、則有表候見於體。(『論衡』巻三、骨相篇)

(人命知り難しと曰うも、命甚だ知り易し。之を知るに何を用ってする。之骨體を用う。人命を天に廩くれば、則ち表候體に見わるる有り)

 1節で挙げた帝王の異相についても、その後に「世所共聞、儒所共説、在經傳者、較著可信」としている。帝王の異相は誰もが聞き知っていること、儒者の説いていること、経伝にあることであり、信じるに値する明確な事実であると記しているのである。

 

 さて、ほとんどの異相は優れた異相として見られていたが、必ずしもそうではないものも存在する。例えば周公や伊尹等の人物が具えていた背僂の相である。これは背骨が突出し、背中が弓状に湾曲するいわゆる佝僂病の事であるが、現実的に多くの人物に見られた症状であった為か、単なる身体障害として扱われた記述が多く存在している。

戚施彌妬、蘧除多佞。(『論衡』巻一、累害篇)

(戚施(せむし)は彌妬にして、蘧除(はとむね)は佞多し)

故伊尹之興土功也、(中略)傴者使之塗、各有所宜而人性齋矣。(『淮南子』巻十一、齊俗訓)

(故に伊尹の土功興すや、(中略)傴者は之を塗らしめ、各宜しくする所有り、しかして人性は齋し)

 『論衡』では傴僂は形態上顔を上げていられないので人に頭を下げてばかりで嫉妬深くなると記されており、『淮南子』では傴僂の適職として塗師が用意されているとしている。ここから傴僂が比較的珍しくはない形態であったことが伺える。また高橋明郎は傴僂蔑視の原因として、「彼らが最初から人間にしか見えなかったことにある」と述べている[iv]

 異相は基本的には優れた人物、神聖な人物、あるいは高貴な人物であることを示すものと見なされていたが、そうではないと否定する見方、あるいは現実的に多く見られるが為に単なる障害として見なされた異相といったように、マイナス的な見方をされる異相も僅かではあるが存在していたことは留意しておかねばならない。

 

第3節:研究状況の整理

 史書中の異相に関して、歴史学的にはどのような解釈がなされているか。その認識と先行研究の動向を整理していく。

 歴史学の一般的な認識としては、歴史書における身体的特徴は、実際にその人物に備わっていたことを示しているわけではなく、その人物の業績や身分による特異性、非凡性を示す為の描写である、というものである。

 たしかに現実的に考えた場合、特異な容貌を持つことが偉大な業績や高貴な身分に結びつくという論理は考えられない為、この解釈は至極正当なものであり、否定の余地はない。

 しかし単に抽象的な特異性、非凡性を示す描写という理解で終わってしまっている点に関しては非常に問題がある。というのも、こうした異相描写には多くの種類・類型がある。特定の種類の異相が付与されているからには、何らかの具体的な意味を含んだ上での記述である可能性も存在する。また時代によって差異が見られる可能性も十分に考えられる。

 しかしながら、史書中の異相は歴史学的には重要視されておらず、これでは『論衡』等から続く「優れた人物を示す」という解釈からほとんど変化していないものであると言わざるを得ない。

 そのような状況の為に先行研究も非常に僅かである。日本においては文学の分野から異相問題に取り組んだ研究は若干見られるものの、歴史学の分野から取り組んだ研究は見受けられない。一方、中国においては少数ではあるが存在するので、ここで中国における異相研究での通説を紹介する。

 

 五胡十六国までの時代における異相について、指摘されている要素は主に相術と受命思想の二点である。

 相術とはいわゆる人相見のことである。人間の身体や雰囲気を観察し性質や運命を見通す術であり、相術をすることを観相と言い、相術を行う人を相者、相人、相工と呼んだ。相術は少なくとも春秋期には文献に記されており、『春秋左氏伝』や『史記』には相人の記事が既に見える。『春秋左氏伝』で相者の叔服が魯の大夫公孫敖の二人の子を観相した記事が有名である。

傳、元年春、王使內史叔服來會葬。公孫敖聞其能相人也。見其二子焉。叔服曰「穀也食子。難也收子。穀也豐下。必有後於魯國」(『春秋左氏伝』文公元年)

(傳、元年春、王使內史の叔服會葬に來る。公孫敖其れ能相人なるを聞く。其の二子を見る。叔服曰く「穀や子を食う。難や子を收む。穀や下が豐かなり。必ずや魯國に後有り」と)

 二子を見て叔服は、兄の穀は公孫敖を養い、弟の難は公孫敖が死んだ際に葬り弔ってくれると言い、さらに穀は顔面の下部が豊かな人相であるので子孫が魯国で栄えると述べている。

 こうした相術は身体描写に取り入れられている。代表的なものとして、後漢光武帝等が具えていた「日角」という異相である。『文選』に収録されている南朝の劉峻による「辯命論」には以下のように記されている。

龍犀日角帝王之表、河目龜文公侯之相。(『文選』巻五十四、辯命論)

(龍犀日角は帝王の表、河目龜文は公侯の相)

 またこの箇所における唐の李善による注では、朱建平の『相書』という文献を引いている。

朱建平相書曰、額有龍犀、入髮左角日、右角月、王天下也。

(朱建平の相書に曰く、額に龍犀有り、髪に入るに左の角日、右の角月なるは、天下に王たるなりと)

 朱建平は三国魏の相者であり、曹丕や王粛の寿命を観相したことが『三国志』に記録されている人物である。この箇所から日角が「帝王の表」であること、また相術について記されている「相書」に日角の異相が記されていることが分かる。相術に由来する用語は異相の中に組み入れられているのである。

 もう一つの要素として受命思想がある。これは『論衡』で王充が説くように、異相とは天命の表出である、とする考えである。異相と受命思想の関連は、特に漢代における讖緯説の流行が影響していると考えられている。讖緯説の論拠の中心とされる緯書には、様々な帝王の異相が記されている。唐の張守節が記した『史記正義』は『史記』高祖本紀の「左股有七十二黒子」注において『河図』、『合誠図』を以下のように引き、また七十二の黒子の意味について、自身の考えとして五行説に基づく数字であることを記している。

河圖云、帝劉季口角戴勝、斗胸、龜背、龍股、長七尺八寸。合誠圖云、赤帝體爲朱鳥、其表龍顏、多黑子。按、左、陽也。七十二黑子者、赤帝七十二日之數也。木火土金水各居一方、一歲三百六十日、四方分之、各得九十日、土居中央、竝索四季、各十八日、俱成七十二日。故高祖七十二黑子者、應火德七十二日之徴也。有一本七十日者、非也。許北人呼爲「黶子」、吳楚謂之「誌」。誌、記也。(『史記』巻八、高祖本紀、「左股有七十二黒子」注)

  (河圖云わく、帝劉季は口角戴勝、斗胸、龜背、龍股、長さ七尺八寸と。合誠圖云わく、赤帝の體は朱鳥爲り、其の表は龍顏、黑子多しと。按ずるに、左は、陽なり。七十二の黑子は、赤帝の七十二日の數なり。木火土金水は各一方に居り、一歲は三百六十日、四方に之を分け、各九十日を得て、土は中央に居り、竝びに四季を索し、各十八日、俱に七十二日を成す。故に高祖の七十二の黑子は、火德の七十二日の徴に應ずるなり。一本に七十日と有るは、非なり。許北の人は呼びて「黶子」と爲し、吳楚は之を「誌」と謂う。誌は、記なり)

 こうした受命思想に基づく讖緯説の流行は、漢代までの異相に大きな影響を与えたとされている。先に挙げた戴干、駢歯、再肘、望羊、背僂、反羽といった異相は全て讖緯説によって漢代に作られたものであると指摘する研究者もいる[v]

 王晶波はこれらの要素を指摘しながら、魏晋南北朝では、両要素とは異なる新しい潮流に影響された異相が登場することを指摘した[vi]。高い身長、手、頭髪、耳に関わる異相は全て仏教の影響が見られるとし、司馬炎、拓跋什翼犍、宇文泰等が持つ「立髪委地」という異相、また垂手過膝がこれに当てはまるとしている。

 王氏の主張する異相論、また仏教由来論を筆者は支持しているが、全時代を通しての論であるが故に問題点も発生している。例えば個々の時代については詳細に触れられていない為、時代背景との関わりが見えにくい点、また代表的な異相のみが挙げられている為、その他の異相については関心が払われていない点等が挙げられる。加えて、過去に同様の異相を持っていた人物との連想で異相が付与される可能性という、異相に関する重要な論点については指摘がない。そういった問題点について、ここでは3章、4章で各種の異相を個別に、また時代を五胡十六国に区切って論じることで、批判的に解決し研究を進めていきたい。

 

第4節:『晋書』載記の史料批判 

 2章で五胡十六国の異相を見ていく前に、中心史料となる『晋書』載記の整理検討をここで加えておかなければならない。

 『晋書』載記は五胡十六国時代の中心的史料であるが、その信憑性においては大いに疑義が持たれている。唐修『晋書』は、唐太宗の勅命により房玄齢らが国家的事業として編纂したものである。これはそれまでに私的に編まれた数々の『晋書』、いわゆる「十八家晋書」を参考としている。唐修『晋書』に信憑性が置かれない理由としては、主に三点が挙げられる。

 第一に、記述対象となる時代と隔絶しすぎているという点。『晋書』は貞観22年、西暦648年に完成している。一方、晋は265年(西晋成立)~420年(東晋滅亡)、五胡十六国は304年(前趙成立)~439年(北涼滅亡)の期間である。優に300年以上離れた時代を対象としており、同時代史料というには程遠い。

 第二に、記事内容の精確性の欠如という点。『晋書』編纂の詔は貞観20年に下された。完成は貞観22年であるので、僅か二年で編纂されていることになる。大人数での編纂とその期間の短さという成立過程を見れば、精度にかけている節があっても何ら不思議ではない。実際、『晋書』載記には紀年の錯誤が非常に多く、『晋書』帝紀や『魏書』、『十六国春秋』と年数が合わない箇所が見受けられる[vii]

 第三に、唐太宗の意趣が随所で反映されているという点。『晋書』編纂は国家事業であり、それは唐王朝の正統性を確定させる為の企画の一環であった。その為、唐修『晋書』にはそういった唐太宗の意図に沿うような編纂が施されているのである。この問題は清水凱夫氏が陶潜伝等において、その意図的改修を明らかにしている[viii]

 

 『晋書』に対する主な史料批判は以上であるが、ここで併せて『晋書』載記についても説明を付け加えたい。『晋書』載記は、『晋書』の末尾に三十巻収録されており、西晋以降東晋から南北朝時代に至るまでに興った諸勢力、所謂五胡十六国について記したものである。

 これは五胡十六国を知る上で最も多くの情報が記録されている史料であるが、一方で、上述の通り、史料としての価値は決して高くはない。記載人物も八十名弱と非常に少なく、王猛等の僅かな人物を除いてそのほとんどは各国の君主である。これは五胡十六国という一つの時代を描写しきるには乏しい人数である。その他五胡十六国に関して記述のある歴史書として現存するのは『魏書』や『北史』、『資治通鑑』等があるが、どれも載記ほど記載内容は充実していない。

 載記は主として北魏の崔鴻が編纂した『十六国春秋』を基にして書かれている。これは五胡十六国の各国で編纂された史書を一つにまとめて編纂した書である。この『十六国春秋』自体は宋代には散逸してしまっており、僅かにその断片が『太平御覧』等、他史料の引用箇所に見えるのみである。

 このように、載記の取扱には十分慎重を期す必要があるが、現存史料の中で五胡十六国という時代を一貫して詳述しているのは載記のみである為、本論では五胡十六国の異相に関して、載記の記述内容を中心に用いる。

 なお、五胡の会が編纂した『五胡十六国覇史輯佚』(燎原書店、2012年2月)は『十六国春秋』といったような、五胡十六国諸政権についての史書、いわゆる「覇史」を引用から集めた工具書である。五胡研究には必須のものであり、ここでも本書所載の覇史史料をその都度明記することなく引用することをあらかじめ付言しておく。

<続く>

 

[i] 山田勝美『論衡 上』(新釈漢文大系68巻、明治書院、1976年9月)の解釈を参考

[ii] 本田濟『抱朴子 列仙伝・神仙伝 山海経』(中国古典文学大系8巻、平凡社、1969年9月)の解釈を参考

[iii] 藤井専英『荀子 上』(新釈漢文大系第5巻、明治書院、1966年10月)の解釈を参考

[iv] 高橋明郎「中国文学における身体描写 序説」(香川大学教育学部研究報告93号、1995年)

[v] 晋文、趙怡氷「重瞳記載的起源・内包与転変」(中国史研究、2014年第2期)、鍾肇鵬『讖緯論略』(遼寧教育出版社、1991年11月)。いずれも『白虎通』の話題である。なお『論衡』では湯王異相を「再肘」としているが『白虎通』では「三肘」としている。

[vi] 王晶波「論史書中帝王形貌記載及其演変」(中国典籍与文化第76期、2011年)

[vii] 鈴木桂「五胡十六國時代に關する諸史料の紀年矛盾とその成因─唐修『晉書』載記を中心として─」(史料批判研究、第四號2000年)では載記の全ての紀年について検討されており、その多くが矛盾していることが示されている。それによると『晋書』帝紀や『魏書』は立年改元改元した年を元年とする)の前提において正しく編年しているのに対して、『晋書』載記は踰年改元改元の翌年を元年とする)として誤って編年していることが原因であると指摘している。

[viii] 清水凱夫「唐修『晉書』の性質について(上)─陶潜傳と陸機傳を中心として─」

(学林、1995年7号)

五胡十六国における異相(1)

はじめに

 中国の歴史書には、「列伝」や「載記」等に数多くの人物が記録されている。そこには人物の生涯が記されているのみならず、冒頭には血縁関係や出身地、性格や身体的特徴、出生にまつわるエピソード等、人物の個性を表す個人情報が記述されている。そうした情報の中で、最もその人の体格や人物像を具体的に想像できる情報が、身体的特徴である。

 その身体的特徴の中で、思わず目を疑うような記述がしばしば登場する。それは尋常ならざる身体的特徴、すなわち異相である。まず二例挙げたい。

 

 第一の例は、五胡十六国時代において、華北統一を達成した前秦の三代大秦天王である苻堅が持つ特徴である。『晋書』苻堅載記上には、冒頭に苻堅に関する個人情報が記述されている(傍点筆者、以下同)。

苻堅字永固、一名文玉、雄之子也。祖洪、從石季龍徙鄴、家於永貴里。其母苟氏嘗游漳水、祈子於西門豹祠、其夜夢與神交、因而有孕、十二月而生堅焉。有神光自天燭其庭。背有赤文、隱起成字、曰「草付臣又土王咸陽」。臂垂過膝、目有紫光。洪奇而愛之、名曰堅頭。(『晋書』巻一百十三、苻堅上載記第十三)

(苻堅字は永固、一名を文玉、雄の子なり。祖の洪、石季龍に從り鄴に徙り、家を永貴里に於いてす。其の母苟氏嘗て漳水に遊び、子を西門豹祠に於いて祈り、其の夜夢みて神と交り、因りて孕むこと有り、十二月して堅生まる。神光有り天より其の庭を燭す。背に赤文有り、隱として起こり字を成し、曰く「草付臣又土(草付で苻、臣又土で堅、つまり苻堅を指す)咸陽に王たり」と。臂は垂れて膝を過ぎ、目に紫光有り。洪奇としてこれを愛し、名づけて堅頭と曰う)

 この冒頭では、苻堅の母苟氏による出生譚と苻堅の背中に赤文が記されていたという興味深い描写もあるが、それはさておき、その後に続く苻堅の体格が注目される。記述によれば、苻堅は膝を越すほど腕が長く、紫の瞳であったという。明らかに常人の体格ではない。

 しかし、こうした異相は、同様のものが他の人物にも見受けられることが多い。苻堅と同様の体格を持つ人物は、劉曜、姚襄、慕容垂といったように同時代の五胡十六国に数多く存在している。

劉曜

劉曜字永明、元海之族子也。(中略)身長九尺三寸、垂手過膝、生而眉白、目有赤光、鬚髯不過百餘根、而皆長五尺。(『晋書』巻一百三、劉曜載記第三)

劉曜字は永明、元海の族子なり。(中略)身長九尺三寸、手は垂ること膝を過ぎ、生まれながらにして眉白く、目に赤光有り、鬚髯百餘根を過ぎず、しかして皆長さ五尺なり)

・姚襄

襄字景國、弋仲之第五子也。年十七、身長八尺五寸、臂垂過膝、雄武多才藝、明察善撫納、士眾愛敬之、咸請爲嗣。(『晋書』巻一百十六、姚襄載記第十六)

(襄字は景國、弋仲の第五子なり。年十七、身長八尺五寸、臂は垂れて膝を過ぎ、雄武にして才藝多く、明察にして善く撫納し、士眾これを愛敬し、咸嗣となることを請う)

・慕容垂

慕容垂字道明、皝之第五子也。少岐嶷有器度、身長七尺七寸、手垂過膝。(『晋書』巻一百二十三、慕容垂載記第二十三)

(慕容垂字は道明、皝の第五子なり。少くして岐嶷にして器度有り、身長七尺七寸、手は垂れて膝を過ぐ)

 本来異相である人物は、仮に存在したとしても稀有な筈であるが、何故同時代の人間がこれほどまでに同じような異相を具えているのだろうか。

 

 第二の例は、こちらも五胡十六国時代で、後涼初代天王の呂光である。『晋書』呂光載記の冒頭には彼が「重瞳」と呼ばれる特殊な目を持っていたと記載されている。

 呂光字世明、略陽氐人也。(中略)及長、身長八尺四寸、目重瞳子、左肘有肉印。(『晋書』巻一百二十二、呂光載記第二十二)

(呂光字は世明、略陽の氐人なり。(中略)長ずるに及び、身長八尺四寸、目は重瞳子、左肘に肉印有り)

 載記によれば呂光は目が「重瞳子」であったという。重瞳子とは瞳が二つ存在する目のことを指し、単に重瞳とも書く。この異相を具えた他の人物は同時代には見えないが、五胡十六国以前の時代には舜、項羽の二名に重瞳の記述が見られる。

太史公曰、吾聞之周生、曰「舜目蓋重瞳子」。又聞項羽亦重瞳子。(『史記』本紀第七、項羽本紀)

(太史公曰く、吾之を周生に聞く、曰く「舜の目は蓋し重瞳子なり」と。また項羽もまた重瞳子なりと聞く)

 後述するが、瞳孔が複数存在する状態は決して有り得ないことではなく、現実的に存在する症状である。とはいえ、歴史書に登場する人物である舜、項羽、呂光の三者が偶然にも重瞳であったとするのは考えにくい。この重瞳という身体特徴はどのように理解すべきか。そこで本論では、歴史書に登場する人物が具えていたと記される尋常ならざる身体的特徴、すなわち異相にどのような意図、あるいは時代背景が含まれているのかという問題について、研究動向を整理した上で分析していく。

 

 対象とする時代としては五胡十六国、文献としては『晋書』載記を中心に見ていく。それは五胡十六国という時代が『史記』、『漢書』、『後漢書』、『三国志』といった「前四史の時代」を経た後の、数多くの皇帝、英雄が輩出された時代だからである。すなわち高貴であった人物が多く、なおかつ前四史の時代で数多く登場した「皇帝、英雄の類型」が存在している。載記自体の史料価値には多分に注意を払わねばならないが、それをおいても比較検討がしやすく特徴が際立って見えると考え、主要史料として扱うことにした。

 まず第1章で異相全体についての整理を行う。五胡十六国までの異相の歴史、異相についての認識、異相研究についての研究動向を整理する。併せて載記の史料批判も行う。第2章では五胡十六国の異相について扱う。載記に見られる異相を全て抽出することで全体的、個別的な特徴を確認し五胡十六国の異相における潮流を捉える。そして第3章、第4章では「重瞳」「垂手過膝」の両異相に焦点を定めて各異相の様相を整理しながら、五胡十六国における異相の位置づけや、異相を具える人物の立ち位置がどのようなものであったかを検討する。全体の流れと個々の要素の両方を検討することによって、五胡十六国における異相を解明したい。

<続く>