五胡十六国における異相(4)

第3章:呂光重瞳

第1節:重瞳の理解

 呂光の身体特徴は「身長八尺四寸、目重瞳子、左肘有肉印」である。「左肘の肉印」は後に亀茲国攻めにおいて「巨覇」という文字を成すものであり、これはこれで非常に興味深い異相ではあるが、本章では「呂光重瞳」という点に絞って考察する。

 この記述には、まず二点の問題が浮かび上がる。第一の問題は「呂光重瞳」は真実であるか、第二の問題は「呂光重瞳」が実際に彼に具わっていたと考えられないならば、どのような意図背景があって付与されたものか、である。

 第一の問題を論ずることは、当然困難を極める。当時の記録者がどのような状態を重瞳として捉え、記録したかについては永久に判明することはない。実際に呂光を目にしない限りは論証することが不可能な問題ではあるが、重瞳が現実的にあり得る状態なのかどうかについては最低限論じておきたい。

 こうした問題に取り組む前に、まずは重瞳について三点の整理が必要である。一点目は史料的な整理、二点目は状態解釈の整理、三点目は意図理解の整理である。順番に整理していく。

 一点目の整理について。「重瞳」と記されている現在最古の史料は『史記』であるが、重瞳と同じような意味の語句が記されている最古の史料となると戦国時代の『荀子』と『尸子』の以下の箇所になる[i]。書き下しは省略する。

堯舜參牟子。(『荀子』巻第三、非相篇)

舜兩眸子、是謂重明。(『尸子』巻下)

その他漢代だけでも『淮南子』、『白虎通』、『論衡』等多くの文献に見られる。先に引いた『論衡』非相篇冒頭の「傳言」からも分かるように、この時期には重瞳は異相として広く伝わっていたようである[ii]

 次に重瞳人物一覧表を作成した。基本的に正史に記述のある人物を対象にしているが、『荀子』、『劉子』 といった正史ではない文献も一部参照した。正史に記述のない場合は背景を灰色としている。また蒼頡は『論衡』に「四目」との記載が見られる。そのまま読めば「四つの目」であるので重瞳ではない可能性が高いが、ひとまず記載した。なお、沈約や李煜は片目のみが重瞳であったと記述されている。

 

(表3)正史登場の重瞳人物表

人物

活躍年代

代表的出典文献

成立年代

描写

蒼頡

古代

『論衡』

後漢

「四目」

古代

荀子

戦国

「参牟子」

古代

『尸子』『荀子』『史記

戦国、前漢

「兩眸子」「参牟子」「重瞳」

顔回

春秋

『劉子』

 

項羽

秦漢

史記

前漢

 

王莽

漢(新)

『論衡』

後漢

 

呂光

五胡十六国後涼

『晋書』

 

沈約

南北朝

梁書』『南史』

南北朝、唐

「左目重瞳子

魚俱羅

『隋書』『北史』

 

朱友孜

五代十国後梁

『旧五代史』『新五代史』

北宋

 

劉旻

五代十国北漢

『新五代史』

北宋

 

李煜

五代十国南唐

『新五代史』

北宋

「一目重瞳子

明玉珍

元(夏)

『明史』

 

※晋文、趙怡氷氏の作成した重瞳人物表を参考に作成[iii]

 

 正史に重瞳と記録のある人物は九名と、非常に少ないことが分かる。『荀子』の堯、『劉子』の顔回、『論衡』の王莽の三名の重瞳は正史に記述が無く、また他の文献にもほとんど見ることができない。また皇帝や皇族といったように、高位の人物が多いことも特徴である。高位ではない、また高位に登らなかった人物は顔回、沈約、魚倶羅の三名のみで、後は皇帝や皇族、王位に就いた人物である。

 その他、五代十国時代に重瞳の人物が多いことも見て取れるが、五胡十六国の異相を論じる都合上、呂光以降の重瞳については、ここではこれ以上言及しない。しかし重瞳という異相が時代を通して非常に希少なものであったことは理解しておく必要がある。

 

 二点目の整理について。重瞳の状態はいかなるものであるか。「瞳が重なっている」という字句通りの解釈をすれば、一つの目に二つの瞳孔が重なった状態ということである。しかし実際にはそういった状態はあり得ないといった意見が多くの研究者に見られる。それ故に代替する様々な合理的解釈が提示されている。

 郭沫若や楊振国は「目線が重なる」という意味として「対眼」、いわゆる内斜視の事ではないかと解釈している[iv]。また王雲度は先天性白内障という解釈をしている[v]。日本では海音寺潮五郎が、虹彩が薄い為に瞳孔が際立っていることであるとしており[vi]、佐竹靖彦は激しい感情の起伏によって瞳孔が収縮すること、感情の起伏が激しい人物を指すと論じた[vii]

 諸氏は「一つの目に二つの瞳が存在する状態は存在しない」という前提を基に論じている。合理的解釈ではあるが論拠に乏しく、全て想像の域を出ていない。その上「重瞳が現実的にあり得ない」という前提条件はそもそも誤りであり、瞳孔が複数存在する症状は医学的に存在している。

 眼科学の教科書である『標準眼科学』には「多瞳孔症」(polycoria)という症状が記載されている[viii]。それによると、先天性または虹彩角膜内皮症候群、緑内障のレーザー手術によって見られる症状だという。瞳孔が複数存在する、重瞳の状態は現実的に存在しうる。滝川亀太郎も『史記会注考証』の「舜目蓋重瞳子」の注に次のように記している。

荀子非相篇、堯舜三牟子、尚書大傳、舜四瞳子淮南子、舜二瞳子、是謂重明、所言不同、余聞之醫生、今人二瞳三瞳者往往而有。(『史記会注考証』、『史記項羽本紀「舜目蓋重瞳子」注)

荀子非相篇は、堯舜三牟子と、尚書大傳は、舜四瞳子と、淮南子は、舜二瞳子、是れ重明と謂うと、言う所同じくせず、余は之を醫生に聞く、今人二瞳三瞳は往往にして有りと)

 しかし、多瞳孔の状態が存在しうるからと言って、実際に項羽や舜が多瞳孔であったとは言い切れない。多瞳孔は極めて稀な症状であるし、そもそも瞳孔が複数存在しているので視野が通常とは異なるか、視力が低い状態となる[ix]項羽は『史記項羽本紀に「籍所撃殺數十百人」と記されているように、膂力が圧倒的に強かったとされているが、果たして多瞳孔の状態でそのような戦闘ができたのかは疑問である。

 

 三点目の整理について。重瞳に与えられた意図としては、まず他の異相と同じように「帝王の異相」であることと、「舜あるいは項羽の属性」を与えるという二種類の意図が時代を通して見受けられる。

 第一の意図については1章でも述べたが、魏の曹植の詩「帝舜贊」を見ることでより明らかとなる。

顓頊之族、重瞳神聖。克協頑瞽、應唐蒞政。除凶擧俊、以齊七政。應曆受禪、顯天之命。(『曹子建集』巻七、帝舜贊)

(顓頊の族、重瞳神聖。頑瞽は克協し、唐に應じて蒞政す。凶を除き俊を擧げ、齊を以て七政す。曆に應じて受禪し、天の命を顯す)

 ここには「重瞳神聖」という句があり、明らかに重瞳が神聖であるという意識に基づいて詠まれていることが読み取れる。

 第二の意図は、重瞳の人物の中でもとりわけ舜と項羽の存在が大きいことに由来している。古代の聖王である舜と英雄である項羽、この両者に勝るイメージを獲得できる重瞳人物は登場することはなかった。宋代の類書である『事文類聚』には「堯舜異相」として、以下のように記している。書き下しは省く(小字は原文ママ)。

堯眉八彩。舜重瞳子淮南子項羽亦重瞳子(『新編古今事文類聚』巻三十八、説相者、技芸部)

 こうした意図が存在していたことは確かである。だが、また同時に否定的意識も少数ではあるものの存在することは注意しなければならない。明の謝肇淛が記した『五雑組』は以下のように記す。

舜重瞳子、蓋偶然爾。未必便爲聖人之表也。後世、君則項羽、王莽、呂光、李煜、臣則沈約、魚倶羅、肅友孔[x]、皆云重瞳、而不克終者過半、相何足據哉。(『五雑組』巻五、人部一)

(舜重瞳子は、蓋し偶然のみ。未だ必ずしも便ち聖人の表爲らざるなり。後世、君は則ち項羽、王莽、呂光、李煜、臣は則ち沈約、魚倶羅、肅友孔、皆重瞳と云うも、しかして克く終えざる者過半なり、相何ぞ據足るか)

 重瞳についての整理は以上である。第一の問題をあえて結論づけるならば次のようになる。重瞳という状態は現実的に存在するが、極めて稀なものである。後涼創始者である呂光が偶然重瞳であったという可能性よりも、何らかの要素として付与されている可能性の方が高い。その具体的な意図については3節で論じていく。

 

第2節:呂光重瞳の発祥地

 第二の問題に取り組む前に、2節ではさらに文献整理の作業を試みなければならない。それは1章4節でも述べた『晋書』載記の信憑性に関わるものである。すなわち「呂光重瞳」という記述はどこから来たのかという問題である。その為『五胡十六国覇史輯佚』から呂光にまつわる「覇史」を収集した。それにより最も一次史料に近い覇史を特定し、さらに「呂光重瞳」記事の発祥地の特定を試みる。

 『五胡十六国覇史輯佚』から、呂光に関する記事を収集した。その結果、呂光に関する記事は『涼州記』(段亀龍)、『涼州記』(著者無記載)、『涼記』、『秦記』、『三十国春秋』、『十六国春秋』の六書からの引用であることが判明した。引用回数は『秦記』、『三十国春秋』は共に一条、『涼記』は三書三条、『涼州記』は著者無記載も含めると五書二十二条、『十六国春秋』は四書十四条であった[xi]。『涼州記』という史書が『十六国春秋』よりも多く引用されていることが判明した。

 『隋書』経籍志の覇史を見てみると、「涼記」や「涼書」といった題名の覇史は幾つか存在するが、後涼について記されている覇史は以下の一書のみである。書き下しは省く。

『涼記』十卷記呂光事。偽涼著作佐郎段龜龍撰。(『隋書』巻三十三、経籍志二史部)

 呂光について記された『涼州記』(段亀龍)、『涼州記』(著者無記載)、『涼記』の三書が同一書物の別表記であることは疑いない[xii]

 「偽涼著作佐郎段龜龍撰」とあるが、ここでの偽涼は北涼を指すと思われる。清の張澍が『涼州記』引用文を収集した二酉堂叢書の『涼州記』には「北涼段龜龍」と明記されているが、その論拠は見当たらなかった[xiii]。ただ、前王朝の歴史を編纂するという史書の慣例からすれば北涼の人物であるのは間違いないだろう。

 『涼州記』が北涼で編纂されたものならば、これは北涼政権が後涼の後継であることを示す為に編纂した正当な史書である。『十六国春秋』は1章4節でも述べたように各国の史書をまとめた書であるので、『十六国春秋』後涼録はこの『涼州記』を参考に編纂されたと見てよい。

 そして「呂光重瞳」記述の初出は『涼州記』であった。恐らく『十六国春秋』も『晋書』載記もこの『涼州記』の記述を踏襲していると見られる。載記と同内容の為、書き下しは省く。

涼記曰、呂光字世明、連結、身長八尺四寸、目重瞳子、左肘生肉印(『法苑珠林』巻五、六道篇第四、第二人事部、S0001)

涼記云、呂光字世明、連結豪賢、身長八尺四寸、目有重瞳、肘生肉印有左臂。(『義楚六帖』巻十四、人事親朋部二十八、g0001)

涼州記曰、呂光字世明、連結豪賢、好施待士、身長八尺四寸、目重瞳子、左肘生宍印。(『太平御覧』巻三百七十七、人事部十八、i2042)

 このように「呂光重瞳」記述は『涼州記』が初出である。この異相を誰が付与したかについては明確ではない。しかし少なくともこの記述が北涼の時代には存在しており、また涼州が発祥地であることの二点は疑いない。

 

第3節:仏教と重瞳

 それでは第二の問題である、「呂光重瞳」にはどのような意図背景があって付与されたものであるか、という点について論じていきたい。

 結論から述べると、「呂光重瞳」には舜や項羽といった先人達との重複要素の他に、仏教的要素が含まれている可能性が高い。

 

 まず、仏教の高僧には、重瞳を持つ者が非常に多い。『大正新脩大蔵経』内の仏教文献には、「重瞳」という記述のある中国の高僧が五名も記録されている。

(表4)『大正新脩大蔵経』における高僧の重瞳人物

人物

活躍年代

代表的出典文献

成立年代

僧実

周京師大追遠寺

西魏

『続高僧伝』

如訥

湖州道場山

『景徳傅燈録』

北宋

智顗

天臺山國清寺

『続高僧伝』

業方

五臺山昭果寺

『宋高僧伝』

北宋

智常

廬山歸宗寺

『仏祖統紀』

南宋

 

 正史に記述されている重瞳人物がわずか九名ということを考えれば、重瞳である高僧の多さは明らかである。これは日本の高僧においても同様で、天台宗の智澄大師円珍、また曹洞宗の開祖である道元にも重瞳の記述が見られる[xiv]

 以上のように、高僧と重瞳には深い関連性があることが分かるが、問題点も生じる。第一の問題として、重瞳の高僧は時代としては西魏や梁が上限であるということ。梁以前の高僧を集めた梁の慧皎が編纂した『高僧伝』には記録が見えない。つまり五胡十六国という時代には安易に当てはめることができないのである。第二の問題として、仏教と重瞳にはどのような関係があるのかという点である。何らかの仏教的意味があるからこそ、高僧に重瞳が与えられているはずである。

 

 第一の問題については2節で見たように、「呂光重瞳」の記述が涼州を発祥地としているという点を鑑みれば説明することが可能である。

 仏教が中国に伝来したのは西暦紀元前後であるが、本格的に中国社会に浸透して影響力を持ち始めたのは、五胡十六国涼州政権による西域経営の結果であるとされている[xv]。すなわちこの時代の涼州は仏教の流入地であり、中国において仏教が最も盛んな地だったのである。とすれば、その他の地域に仏教と重瞳の関係性が見られずに、涼州の地にしか見られなかったとしてもさほど不自然ではない。

 またこの時代の涼州には高名な仏教僧として鳩摩羅什も居た。羅什は苻堅に西域遠征を決断させたほどの人物であった。それによって当時前秦の将であった呂光が派遣され、後に後涼を建てることになる呂光と関わりの深い人物である。羅什は後涼政権下で十五年涼州に居り、予言者的存在として重用されていた。これらの史実からいって、羅什は後涼政権に大きな影響を与えていたと思われる。

 

 第二の問題、重瞳の仏教的意味を考えたい。「重瞳」という語は中国由来であり、仏典には全く見受けられない。しかし、重瞳と似た異相が「相好」にある。

 相好とは、正確には「三十二相八十種好」といい、仏に具わる容貌特徴のことである。三十二のはっきりと判別できる身体特徴と、八十の微細な身体特徴に分かれている。具体的な列挙特徴には多少の異同があり、また八十種好は正確に八十種類並べられていない場合もある[xvi]。本論では、龍樹著、鳩摩羅什漢訳による、『摩訶般若波羅蜜経』(二万五千頌般若経)の注釈書である『大智度論』に記載されている相好を引く。

 その三十二相の一つとして「真青眼相」というものがある。これは青蓮のような眼を指す。『大智度論』巻四では三十二相の二十九番目として挙げられている。

二十九者眞靑眼相。如好靑蓮華。(『大正蔵』二十五巻、九十一頁、上段)

(二十九は眞靑眼相なり。好い靑蓮華の如し)

この相は釈迦の十大弟子である阿難(アーナンダ)を歌った偈頌にも現れる。以下も『大智度論』、巻三からの引用である。

面如淨滿月、眼若靑蓮華。(『大正蔵』二十五巻、八十四頁、上段)

(面は淨滿月の如く、眼は靑蓮華の若し)

 このように、三十二相の一つである真青眼相とは「青蓮の眼」を指した。そしてこの「青蓮の眼」が、重瞳と同一視されていたようである。その根拠は、唐の詩人である王勃の「観音大士讚」中の記述である。この讃は元の盛熙明の『補陀洛迦山伝』に収録されている。その中に観音菩薩の身体特徴として、以下の記述が見られる。

目紺重瞳、似水面之青蓮、乍秀。(『大正蔵』五十一巻、千百三十九頁、上段)

(目は紺にして重瞳、水面の青蓮に似たり、乍秀づ)

 明らかに重瞳と水面の青蓮を重ねている。重瞳と蓮華は実際の状態としては連想しにくいが、恐らくこれは蓮華の花弁の重なりと、重瞳の「瞳が重なる」という字句上の意味からの連想ではないかと考えられる。

 このように、重瞳は仏の相好である真青眼相との同一視、連想が見られる異相であった。

 2節では呂光重瞳の発祥地を涼州、初出を段亀龍の『涼州記』と特定したが、重瞳を付与した存在については「明確でない」と回答を保留した。仏教と涼州、重瞳の関連を指摘した3節においてあえて論を述べるならば、呂光重瞳の記述は、後涼側もしくは後涼に近い人物が付与した異相である可能性が高いと言える。

 通常、異相の付与者については、(1)自政権側が付与した、(2)史書を記した継承政権側が付与した、(3)後世の人物が付与した、という三点の可能性がある。呂光重瞳に関して言えば、(1)以外はあり得ない。なぜならば、上で述べてきたような意味を含む「重瞳」という異相は、自政権側が付与しない限り意味を成さないからである。(2)の継承政権、すなわち北涼が呂光に重瞳を与えても意味がない。また(3)は『涼州記』の存在から否定できる。

 後涼が与えたと仮定すれば、政権運営に効果的という面で意味が生じ、自然な解釈となる。また、政権内には鳩摩羅什も参与していた。彼は神異的予言者、あるいは軍師的存在として政権に関与していたようである。『晋書』鳩摩羅什伝には羅什の予言が見られる。

光欲留王西國。羅什謂光曰「此凶亡之地、不宜淹留、中路自有福地可居」光還至涼州

聞苻堅已爲姚萇所害、於是竊號河右。屬姑臧大風、羅什曰「不祥之風當有姦叛、然不勞自定也」俄而有叛者、尋皆殄滅。(『晋書』巻九十五、芸術伝、鳩摩羅什伝)

(光は留まりて西國に王たらんと欲す。羅什は光に謂いて曰く「此れ凶亡の地、宜しく淹留せず、中路自ら福地有り居るべし」と。光は還りて涼州に至り、苻堅は已に姚萇に害せらる所を聞き、是に於いて竊に河右を號す。姑臧大風屬き、羅什曰く「不祥の風は當に姦叛有り、然れども勞せずして自ら定まるなり」と。俄に叛有る者、尋いで皆殄滅す)

 鳩摩羅什が呂光に重瞳を付与したとは言い切れないが、少なくとも政権内に仏教的要素が入る余地が存在したことは事実である。

 しかし、重瞳に仏教的要素が想起されるからといって、従来の重瞳に含まれる意味であるところの「優れた人物を表す異相」や「舜や項羽を連想させる異相」という要素が含まれていないかというと、それは間違いであるだろう。やはり重瞳の異相において、舜や項羽の連想というものは拭いきれるものではない、というのは1節で確認した通りである。

 以上の検討結果からみて、呂光重瞳は、三十二相の一つである真青眼相との同一視による仏教的要素と、舜や項羽を連想させる従来の中国的要素が組み合わさったものであり、それは後涼政権内から、その効果的支配の為に生み出された可能性が高い、ということになる。

<続く>

 

[i] 滝川亀太郎の『史記会注考証』は「參」を「数字の参」と取り「三牟子」としているが、それよりは「參」を「まじわる」の義と取り「ひとみがまじわる」、すなわち重瞳と取る方がより腑に落ちる理解である。また現在残っている『尸子』では「重明」と記されているが『史記集解』では「尸子曰舜兩眸子、是謂重瞳。」とある。本来は「重瞳」と記されていたのか、裴駰の誤りであるかは不明である。『太平御覧』はこの箇所を「重明」と引いている。

[ii] 「舜二瞳子、是謂重明。」(『淮南子』巻三、脩務訓)、「又聖人皆有異表。(中略)堯眉八彩是謂通明、歴象日月璇璣玉衡、舜重瞳子是謂滋涼」(『白虎通』巻三上、聖人)

[iii] 晋文、趙怡氷「重瞳記載的起源・内包与転変」(中国史研究、2014年第2期)。両氏が作成した表は人物の身分を重視した並びとなっている。

[iv] 郭沫若「楚覇王自殺」(『郭沫若全集』文学編第10巻、人民文学出版社、1985年9月所収。初出は1936年9月)の短編での作者注において重瞳を「対眼子的意思」としている。楊振国「”重瞳”再訓」(内蒙古民族師院学報、1993年第2期)は「重」と「斗」の字には意味の重複が見られることから重瞳は「斗眼」、内斜視を意味したのではないかと述べている。

[v] 王雲度「論項羽的英雄気概」(『項羽研究』第1輯、鳳凰出版社、2011年5月)では、先天性白内障によって水晶体に点状の混濁が発生した状態があたかも瞳が重なっているように見えたのではないかと述べている。

[vi] 海音寺潮五郎『中国英傑伝 上』(文藝春秋、1971年1月)に「ひとみが重なっている目がある道理がない。おそらく黒目が黄みを帯びた薄い茶色なので、中心にある眸子がくっきりときわ立ち、あたかも瞳が重なっている漢字に見える目を言うのであろう」とある。

[vii] 佐竹靖彦『項羽』(中央公論新社、2010年7月)では「もしこの言い伝えが何らかの意味をもっていたとすると、考えられるのは、舜や項羽は感性ゆたかな強い感情をもつ男であり、かれらが怒りを発したときには、その瞳は針のさきのように小さく射るような眼光を発し、親しみをもって人に接するときには、瞳は温かみを帯びて目一杯に広がったということである。あたかも二つの違う瞳をもつように感じられるので、人びとはこれを小さな瞳と大きな瞳が重なった人間だと表現したのではないだろうか。」とある。

[viii] 木下茂、中澤満、天野史郎『標準眼科学 [第12版]』(医学書院、2013年3月)

[ix] 松田久美子他「先天性多瞳孔の1例」(眼科臨床医報、1978年72-4号)、新保信夫「多瞳孔の1例」(眼科臨床医報、1964年58-1号)に多瞳孔の症例が報告されている。後者の論文には、多瞳孔の患者について「生来両眼視力が悪く、検眼のため来訪した」と記されている。

[x] 「肅友孔」は朱友敬(友孜)を指すと思われる。

[xi] 呂光の記事が引用されていた典籍は以下の12書である。『北堂書鈔』(隋、虞世南)、『藝文類聚』(唐、欧陽詢ら)、『辯正論』(唐、法琳)、『法苑珠林』(唐、道世)、『肇論疏』(唐、元康)、『沙州圖經』(唐、選者未詳)、『初學記』(唐、徐堅ら)、『義楚六帖』(後周、釈義楚)、『太平御覧』(北宋、李昉ら)、『太平寰宇記』(宋、楽史)、『資治通鑑考異』(北宋司馬光)、『説郛』(明、陶宗儀)。当然全てを蒐集した訳ではないがおおよそのカバーはできていると考える。

[xii] 『隋書』経籍志に記録されていた段亀龍撰『涼記』は、『旧唐書』経籍志には見受けられないものの、『新唐書』芸文志にはその名が記録されている。『宋史』芸文志になると他の五胡十六国史書と同様にその名を見出すことはできなくなる。

[xiii] 段亀龍撰、張澍輯『涼州記』(二酉堂叢書、百部叢書集成50、藝文印書館、1967年)

[xiv] 道元については、曹洞宗の瑩山紹瑾が著した『伝光録』巻下に「師諱道元。(中略)正治二年初テ生ル時ニ。相師見奉テ曰。此子聖子也。眼ニ重瞳アリ。必ズ大器ナラン」(『大正蔵』八十二巻、四百五頁、上段)とある。円珍については田口秀夫「重瞳の系譜」(室町芸文論攷、1991年)では、三善清行の撰んだ「天台宗延暦寺座主円珍伝」の「両目有重童子」の記述等を引いている。

[xv] 三崎良章『五胡十六国国史上の民族大移動 [新訂版]』(東方書店、2012年10月)

[xvi] 本庄良文「シャマタデーヴァの伝へる阿含資料─世品(3)仏の相好─」(神戸女子大学紀要、1990年24L巻)にある偈頌には八十種好に番号が振られているが、その数は七十七に留まる。